慶平霜雪秘聞
 
 立てかけてあった枝を引き寄せ、益はよいしょ、と立ち上がる。数歩進んだのち、のろのろと顔を上げる陽成に呼びかける。
「帰りましょう。二条院の方々も心配しています」
「……」
 目のふちを赤くした陽成は、しばらく動こうとしなかった。ゴソゴソと懐を探って紙を引っ張り出し、勢いよく鼻をかむ。それから、ようやく益に居並んだ。
 すぐ横にある陽成の顔は、益のそれよりも僅かに低いところにある。以前も大体この角度から眺めていたことに気づき、お互い大人になった今でも大して差はないんだな、と軽く驚いた。それでも感覚的に陽成の方が長身に思えるのは、彼が烏帽子をかぶった俗体なのに対し、益はきっちり剃髪した僧形だからだろう。
 ちょっとした林を抜ければすぐ別れ道だ。益は東に曲がって八坂に。陽成は鴨川を渡って平安京に。
 丁度曲がり角に辿り着いたところで、ざくざくと雪を蹴っていた足音が不意に止む。見ると、名残を惜しむかのように陽成が立ち止まっている。つられて益も停止したが、意地になった陽成はいつまで経っても歩き出しそうにない。仕方がないので置いていこうかという考えが一瞬脳内をかすめたが、すぐに思い直した。いつも置いて行かれてばかりの益だったが、立場が逆になった今は、素直に待ってみようという気になったから。
「……今回は、お会いできて嬉しかったです。本当ですよ」
 静寂のなかに、ぽつりと益の一言が落ちる。
「二度と会えないと思ってはいましたが、やはり死んだことにしてそれっきりというのは嫌だったんですね。勝手な言い分だと分かってはいたのですが」
 照れくさそうに笑う益を一瞥し、陽成は一歩踏み出しついでに彼の背中を殴った。ぐっと固めた拳で一度だけ、軽く小突くように。
 そのまま早足で去ろうとした陽成は、突然くるりと振り返った。少しばかり開いてしまった距離に負けぬよう、口に両手を添えて叫んでいる。
「……近いうちに、二条院で母上の五十の賀を催す! 僧侶どもを大量に呼び集めた、今までにない算賀の席にするつもりだ!」
 益はそのらしくない趣向に苦笑いをする。仏道修行に熱心だった父帝・清和とは違い、昔はそれらしい儀式に見向きもしなかったくせに。
 だから、と陽成は一層声を張り上げる。
「その日だったら、多分お前一人くらいうろついてても気づかれないから……来いよ!? 足が悪くて来られないってんなら、迎えを幾らだって寄越してやる!」
 また馬鹿なことを、と益は呆れ返る。冗談はよして下さい、と怒鳴り返しかけ、直前で思いとどまった。あえて是とも否とも返さずに、そのまま陽成に背を向け、杖を使って帰路に就く。
「おい益、聞いてんのか!? 来なかったら承知しねえぞ!」
 次第に広がる二人の間をすり抜ける雪風のせいで、まるで薄絹に隔てられたような錯覚が生じる。視覚的にも聴覚的にも互いが遠のいていく。
 陽成はまだ何か叫び続けていたが、それもだんだん曖昧なものになりつつあった。その不思議と耳に馴染む声が届くうちに、益は立ち止まり、身体ごと振り返る。ぼんやりと見える陽成の影に向かって、深々と頭を下げた。そして、小さく呟いた。
「……さようなら」
 七年前に言えなかった。言うわけにいかなかった一言を。
 恐らく陽成にまみえるのは、これが最後になるだろう。それが分かっているから、益はひどく遠のいたように思えるかつての主人の姿を瞼裏に焼きつける。別たれた道は、偶然の悪戯で交わることはあっても、決して一つにはならない。彼らは、これから別々の道を歩んでいく。
 戻りたくない、わけではない。他ならぬ陽成が望んでくれるのなら、益の心など決まっている。でも、その感情だけで決着がつくほど、彼らの間に起きた出来事は軽いものではないのだ。
 益は踵を返した。杖をついた危なっかしい、しかし迷いのない足取りで観慶寺へと続く道を踏み締める。そういえば、今日は下人の介添えなしで寺の石段を上らねばならないのだった。果たして無事に辿りつけるのだろうか、足を滑らせて転げ落ちやしないかと思ったところで、前方に人影があることに気づいた。
「……あれ、迎えはいいって言いませんでしたっけ」
「お前の下人はそう言ってたな」
 笠を手にして待っていたのは、いつも世話になっている寺の仲間だった。あんまり遅いもんで、と苦笑いしながら益に笠を被せてくれる。さ、と肩を貸そうとしてくれる仲間に、益は穏やかに首を振る。
「いいですよ。今日は、一人で歩いてみたい気分なんです」
「そんなこと言って、お前の足じゃあ無理だろ」
「なら、どうしても駄目になったら助けて下さい」
 はあ? と怪訝な顔をされた。益は照れ笑いをして誤魔化す。
 そういえば、陽成は五十の賀の折に迎えを寄越すとかなんとか言っていた気がする。あれは本気だろうか。もしも本当に来てしまったら、一体何と言って諦めさせよう。
 くすくすと笑う益を、仲間は気味悪そうに見やった。益はかぶりを振り、凍てつく空気に白い息を吐き出したのであった。
 

《終》 あとがき

 

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