屋敷の中を動き回る足音は慌ただしく、日ごとに苛立ちのような気配を滲ませる。戦が近いのだ、と山吹はぼんやりと思った。
 同じように、自分の身体の不調も重くなりつつある。都入りしてからずっと続いているそれが、もう一時的なものではなくなっていることに、彼女はとうに気付いていた。
 そこに、規則正しい足音が聞こえてきた。物心ついた頃から共に過ごしてきた、あの人物のものだ。
「――山吹?」
 扉の向こうから、気遣わしげな声が響いてくる。想定した通りの人物の声に軽く安堵し、山吹は返事をした。
「どうぞお入り下さい、――巴様」
 やがて、白の小袖に緋袴を身に着けた巴が現れた。礼をして入室する彼女に応えようと、山吹は横たえていた身体を起こそうとし、失敗する。
 再び起きようとする山吹を、慌てて巴が支えた。
「――無理をせず、どうか楽に」
「いいえ。……ごめんなさい、手伝って頂けますか?」
 巴の静止を拒み、山吹は助けられながらも何とかして上体を起こした。巴と同じ目線で話したかったのだ。
「ありがとうございます」
 感謝の気持ちを述べると、巴は黙って首を横に振った。気にするなということだ。
 慇懃な口調と寡黙さから誤解されやすいが、巴は優しい。甘やかすのではなく、本当に必要な時は手を差し伸べてくれる。
「……本来なら、私の方から伺うのが筋なのですが……」
「今は病を治すことが先決。これくらい構いません」
 そうは言っても、今日ここに巴を呼び出したのは、山吹自身なのだ。しかし、彼女の身体は、この通り一人では起き上がることすら困難なほど、病魔に蝕まれていた。
 「……巴様……」
 声が、震えた。言わなくてはいけないことがある。そのために巴を呼んだのだ。自分にはもう時間がないから、今しか言う機会はない。
 それが分かっていても、中々次の言葉が出て来なかった。
 巴は訝しげに、山吹を見た。山吹の様子がおかしい。何かに怯えているように、ただ俯き、唇を震わせている。
 出来ることなら言いたくなかった。言わないままに済ませたところで、誰も責める者はいない。けれど――
 目の前に座っている巴は、黙って山吹が言葉を紡ぐのを待ってくれている。そんな巴に勇気付けられ、山吹はやっとのことで声を振り絞った。
 
 「――ごめんなさい……」
 
 その一言を発したら、少しだけ楽になった。後はするすると言葉が溢れてくる。
「私は――今まであなたを妬んでいました。ずっと、殿のお傍で戦っていらっしゃったことを」
「山吹――?」
 巴は目を見開いた。心底驚いたのだろう。彼女は今まで、山吹が自分をどう見ていたか、気付いてはいなかっただろうから。
「羨ましかったんです。殿のお役に立てるあなたが。……殿に愛されているあなたが」
 幼い頃から、巴は義仲や、彼女の兄である兼光や兼平と共に武芸の稽古に励んでいた。
 巴が義仲――駒王をしごき、その傷を山吹が治療する。いつからかそれがお決まりになっていた。
 あの頃はそれが幸せだった。駒王がいて、巴がいて、兄たちがいて。妙な劣等感など感じることなく、山吹はただ笑っていられた。
 それが崩れたのは、駒王が元服を迎え、義仲と名乗るようになってからだ。
 山吹が彼に淡い恋心を抱いていたことは、父・兼遠も気付いていた。それを慮り、父は義仲に、山吹を妻として差し出した。
 嬉しかった。幼い頃より慕い続けた相手と結ばれ、夫婦となったことが。
 そんな幸せに包まれていたある日、山吹は予想もしなかった話を耳にした。
 巴が、義仲の元に嫁ぐ――。
 巴から切り出した話でないことは明白だ。彼女が主君として仰ぐ義仲に対してそんな出すぎたことを言うはずがないし、第一彼女は、山吹がどんなに義仲を想っているかを知っている。巴がその話に頷くとしたら――義仲本人が彼女を望んだ場合。
 案の定、巴の嫁入りは義仲たっての希望だったという。兼遠は、初めこそその申し出に戸惑ったものの、結局は了承した。
 今思えば、義仲はただ、物心付いた頃から馴れ親しんだ巴と山吹が、彼にとって別の立場となることが考えられなかったのだ。
 彼にとって、巴も山吹も一番近い存在で、傍にいるのが当たり前で。
 しかし、当時の山吹はそんなことには気が付かなかった。義仲にとって大切なのは自分ではなく、巴なのだと。そう思ったら止まらなくなった。
 義仲を問い詰める勇気も出なかった。もし、先に嫁いだのが山吹ではなく、巴だったとしたら――義仲は自分も娶りたいと、兼遠に申し出てくれただろうか。
 義仲は確かに彼女を大切にしてくれたが、自分が巴と同等、もしくは上の存在だとは思えなかった。
 山吹が巴や二人の兄とは違い、妾腹の子だったことも彼女の自信をなくさせる材料だったのかも知れない。
 後に彼女が、義仲の嫡子・義高を産んだ後も、その不安は消えなかった。
「私は……巴様に追いつきたかった。だから、巴様のように戦うことを決めました。――私は、あなたに嫉妬していたのです」
 しかし、慣れないことを続けたことが祟り、山吹は病の床に就いた。馬鹿なことをしたと、今なら分かる。義仲は、巴は巴、自分は自分として、分け隔てなく接してくれていたのに。何故――そのことに、もっと早く気付けなかったのだろう。今では全てが手遅れだ。
 巴は、ただ黙って山吹の告白を聴いていた。その整った白い顔には、山吹に対する怒りも哀れみも浮かんではいない。
 ふいに、涙が出てきた。泣くまいと決めていたのに、一度それに気付いたら止まらなかった。自分の醜い妬みに対する羞恥と、巴に対する申し訳なさでいっぱいになる。
 そんな自分を、巴は気遣い、背を撫でてくれる。
 「でも――私、巴様のことが好きでした。それは本当です。殿のお役に立てるあなたは、私の憧れでした……」
「分かっています」
 初めて、巴が口を開いた。
「山吹は私に悪意など持っていなかった。それは知っています」
 少し躊躇うように巴は目を閉じ、やがて迷いを断ち切ったかのように微笑む。
「今更、私が言うまでもなく分かっているでしょうが……山吹は、きちんと殿のお力になっています。殿が誰のために戦ってきたか、考えたことがないはずがないでしょう?」
「ええ……ええ……」
 山吹は泣きながら頷いた。義仲が大切に想う者たちの中には、きちんと自分も含まれている。
 ごめんなさい、と山吹はもう一度呟く。
 謝ることではない――巴は口にすべきか迷い、結局やめた。そう言ったところで、山吹は納得しないだろう。代わりに、泣き続ける彼女を軽く抱きしめてやる。
 自分は何も言うことはない。山吹は、巴が言いたいことは皆、既に分かっている。自分がしてやれることは、ただ山吹の話を聴き、気が済むまで泣かせてやること。
 きっと、これが二人の触れ合える最後の時間になるだろう。山吹に残された時は、もう長くない。
 だから、せめて。今日この時だけは、義仲の妻ではなく、同じ父親を持つ姉妹として。
 巴は、すがり付いてくる不器用な妹を、ただただ抱きしめてやった。
 
 屋敷の中は、相変わらず騒がしい。ここのところ、都では義仲の評判が悪くなり、状勢が不安定になってきた。
 鎌倉方も、義仲追討の院宣を受け、都に向かって進軍しているとの噂だ。おそらく、戦が始まるのも遠くない。そして、山吹は義仲と共に行くことは出来ない。
「巴様……」
 頬に残った、涙の痕が痛々しい。しかし、そのようなことには構いもせず、山吹は懇願した。
「私は、もう戦うだけの……いいえ、生きるだけの力すらも残ってはいません」
「――」
 巴は、目を伏せた。彼女はその場しのぎの慰めなど、口にはしない。かと言って肯定することも出来ず、唇を噛んだ。
「だから、あなたにお願いがあります。殿を……義仲様を、お守りして下さい」
 巴にとって、それは言うまでもないことだ。だが、山吹はあえて頼み込む。その意図を理解してか、巴はしっかりと頷いた。
「――山吹」
 巴は、柔和な微笑みを山吹に向ける。
「戦が終わり、あなたの病が治ったら――木曽へ帰りましょう」
 山吹は目を見開く。らしくないと思った。そのようなこと、出来るはずがない。山吹はもう木曽へ向かう気力など残ってはいないし、巴も主君のために討ち死にする覚悟だ。
「しばらく木曽の山を見ていないでしょう?全てが終わったら、殿や樋口の兄上、今井の兄上と共に……義高も、鎌倉から呼び戻して。皆でもう一度、木曽の山へ」
 その言葉で、山吹は無邪気に遊んだ幼少期を思い出した。自分や巴、駒王や兄たちの五人、日が暮れるまで木曽の山を駆け回ったものだ。
 世の中のことなど何も知らず、ただ毎日が楽しかった。義高が生まれてからは、息子をよく皆でその場所へ連れて行った――。
 その想い出が、今は堪らなく懐かしい。
「そう――ですね」
 気が付いたら、そう微笑み返していた。無理だとは分かっている。けれど、今だけはその希望にすがり付いても許されるだろう。
 山吹の頬に、再び温かい何かが流れ出す。それは、日の光を受けて透明に煌めいた。
 

《終》

 

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