「……山吹?」
 耳慣れた声に、はっと振り向いた。すると、一番そこにいて欲しくなかった人物と視線がぶつかる。人影は闇の中にぼんやりと紛れ込んでいたが、相手の正体は不思議とはっきり判った。
「殿……」
 夫の姿を認めると、山吹は俯き、唇を噛んだ。見つかってしまった。気付かれぬよう、こうして人目につかない場所、時間帯を選んでやってきたのに。
 一方の義仲は、戸惑いに満ちた表情を隠そうとはしなかった。藪を掻き分けて歩み寄ってくるが、その眉は心底不可解そうに寄せられている。何故なら。
 高く括り上げた髪に、男物の装束。そして手には薙刀。
 闇に浮かぶその姿は、普段の彼女の淑やかな様子から、あまりにもかけ離れていたのだから。
 
 未だに驚きが抜けきらない義仲とは対照的に、山吹は腹をくくったようだった。すっと表情を引き締め、義仲の前にひざまずく。
「お願いがあります。――どうかこの山吹も、此度の出陣にお供させて下さい」
 
 
「俺は反対だ」
 瞬時に言い切ったのは兼光だった。樋口兼光――山吹の異母兄であり、義仲の忠実な家臣の一人だ。
 義仲の館の、とある一室。そこに義仲を始めとした面々が集っていた。議題は勿論、山吹のことだ。
 彼は鋭い視線を山吹に向け、じろりと睨みつける。普段は山吹の言い分も重んじてくれる兼光だ。その分余計に、即座に否定されたことに傷ついたのだろう、山吹は黙って俯いていた。それでも負けまいと口を引き結ぶ彼女の小柄な肩を、隣にいた人影がぽんと優しく叩く。
 今井兼平。兼光と母を同じくする、山吹の兄だ。
「私は反対しませんよ、山吹」
「兼平様……」
 口元に穏やかな微笑を浮かべる弟を、兼光は厳しい声音で咎めた。更に深い皺を眉間に刻み、ねめつける対象を変更する。
「兼平」
 正気か、と訴えかける兄の視線を、兼平はさらりと受け流した。兼光の怒りをかわしつつ、その場にいるもう一人の男に話を差し向ける。一番上座で腰掛けている、かの人物に。
「あなたはどう思っていらっしゃるのですか? ――殿」
 彼らの主君であり、山吹の愛する夫、源義仲。彼の意見を聞くのが先決というように、兼平は義仲を見遣った。山吹は息を呑み、心音は緊張にはやりだした。義仲の考えこそが、彼女が一番聞きたいと望んでいることだったから。
 話を振られた義仲は、躊躇いつつも口を開いた。
「わしは――山吹の気持ちを尊重したい」
「殿!」
 鋭い罵声を浴びせたのは、当然ながら兼光だった。兼平は余裕の表情を崩さないし、場にいる残り一人の人物――巴は口を挟まずに黙って座っている。いきり立つ兼光を、義仲は身振りで制した。静かに、言葉を続ける。
「連れて行くことに、異存はない。ただ、それだけでなく――共に戦場で戦うと、そう言うのか? 山吹」
 目線を下方でさ迷わせていた義仲は、そう言って山吹の方を見た。その真っ直ぐな眼差しに、山吹はしっかりと頷く。
「はい。私は、皆と同じように合戦に参加しとうございます」
 寸分の迷いもない口調に、義仲の瞳は揺れた。しんと辺りが静まる中、兼光だけが不服そうな顔をしている。
「山吹、お前には無理だ。巴じゃあるまいし、戦場に出るなど――」
 その「巴」という単語に、山吹の肩がぴくりと震えた。反射的に顔を上げ、衝動のまま言い放つ。
「出来ます! ――私だって木曽の女です!」
 兼光が断固として反対するのも、義仲が決心をつきかねているのも、理由は明白だ。山吹を大切に思っているからこそ、容易に頷こうとしないのだ。それが分かっていて、それでもなお、山吹は己の意志を貫き通そうとしている。
 沈黙を打ち破ったのは、張り詰めた顔をした義仲だった。考え込んだ末に、何かを吹っ切るように顔を上げる。
「――相分かった」
「!」
 山吹と、兼光と。弾かれたように同時に目を見開くが、その内の感情は正反対だ。ゆっくりと安堵の色が山吹の顔に広がっていき、彼女は勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございます!」
 嬉しそうに微笑む山吹に、義仲は複雑な表情を滲ませた。彼とて、迷いに迷ったのだ。山吹を危険に巻き込みたくなどない。だが、これほどまでに懇願してくる彼女を、どうして無下に出来よう。
「そうと決まれば、夜が明けたら早速稽古の開始ですね。あまり時間がありません、厳しくいきますよ」
「宜しくお願いします、兼平様」
 山吹は深々と礼をする。その様子を憮然と眺めている兼光に、兼平はいかにも不思議だといった風情で言葉を投げかけた。
「兄上、心配は要りませんよ。山吹も一応、武術の心得はあることはご存知でしょう?」
「一体いつの話をしている。あれは子供のときの話だろう」
 山吹が彼らの稽古に加わっていたのは事実だが、それはもう十年以上前の話で、言うならば子供のお遊びに近かった。巴は素質と、何より本人の意思があったために現在まで欠かさず稽古を続けてきたが、一度武の道を離れた山吹が戦うなど。そう兼光はぶつぶつと呟くが、もう遅かった。
 主君、義仲が是と言った。こうなった以上、この決定は決して覆せないのだ。
 渋々ながらも、兼光も覚悟を決めたようだった。気まずそうに見上げる山吹に向き直り、小さく頷く。それは、彼が折れたことを示していた。その動作に、山吹はようやく固くこわばった顔をほぐすことができた。
 山吹は最後に、傍らにたたずむ巴をちらりと見た。しかし彼女はその視線には気付かず、真っ直ぐに義仲を見据えている。
 巴は、とうとう最後まで自分の意見を言おうとはしなかった。
 
 
 一度は山吹と共に退室した巴が再び義仲の部屋を訪れたのは、それからすぐのことだった。
「戦の間、殿は山吹から目を離さないで下さい」
 珍しく兼平の提案で酒盛りを始めていた主従三人は、突然の台詞に一旦その手を止めた。
「巴、どういうことだ」
 訝しげに剣呑な視線を向ける兼光。酒が回り始めたため、その頬は微かに赤らんでいた。しかし、巴の一言で酔いを吹き払ったのは流石と言えよう。
 唇を真一文字に引き結んだ巴は続けた。
「山吹に、人を殺めさせてはいけません。もしその手を血で穢してしまったら――あの子はもう二度と、義高の前で笑うことができない」
 義仲ははっと表情を変えた。義高。義仲と山吹の間に授かった息子である。
 己が人殺しになってしまえば、山吹はその所業の重みに押し潰されてしまう。おそらく山吹は、戦場で背負うことになるその咎の大きさに気付いていない。必死に同行を求める山吹の姿は、気持ちばかりが先走りして、何かを渇望しているようで、そしてひどく危うかった。
 義仲も兼光たちも、同じ枷に囚われることになる。その点では、彼らは言わば共犯者になる。しかし、義高は違う。少なくとも現時点では。
 己が息子をいとおしんでいればいるほど、山吹はその血にまみれた手で触れることを躊躇う。心優しい山吹は、その罪の深さに耐えられまい。巴はそのことを考慮したのだ。兼平も、それを予想していたかのように頷いている。
 しかし、兼光は少々困惑気味だ。
「お前の言いたいことは分かった。だが、殿にその役目を負わせるわけにはいかん。万が一の時に、足手まといになる危険がある」
 敵襲の中で山吹を守りながら戦うのは難しい。彼は思案し、僅かな逡巡の後、やがて迷いを払拭した様子で口を開いた。
「――よし。山吹のことは俺が引き受けよう。それならば――」
「いいえ」
 遮る巴の声には、彼女の強靭な決意が秘められていた。
「敵は全て、この巴が薙ぎ払います」
 義仲に賊を近付けなどさせない。決して、危険にさらしはしない。彼女の命を懸けて。
 義仲の下が、一番安全なのだ。
「巴に一理ありますね」
 ずっと黙って話の成り行きを見守っていた兼平が、静かに言った。けれど、と続ける。
「殿をお守りするのは巴一人ではない。そうでしょう?」
 彼は口元に笑みをたたえたまま兼光を見る。返事を求められ、彼はどこか観念した様子で、しかし強く首肯した。
 そう、彼ら兄妹がいる限り、義仲の軍は無敵だ。
 最後に、全員が義仲を見た。彼らの言わんとしていることを察し、義仲ははっきりと頷く。
 山吹は、兼光たち三人と母を異にしている。そのことを負い目に感じており、彼らとは微妙な距離をとって接していた時期もあった。そのせいか、彼女は未だに彼らを「兄」「姉」とは呼ばない。
 その山吹を支えてやりたい。それは、皆が共通して抱く想いだった。
「――巴」
 今まで口をつぐんでいた義仲が、迷いつつも静かに問いかけた。
「……お前は、山吹を同行させると決めたわしを、恨んでいるか?」
 義仲が山吹の同行を認めなければ、このような事態を招くこともなかった。それに気付き、今更ながらに後悔したのだろう。義仲の声は小さかった。
「いいえ」
 即座に巴は否定する。
「殿のご意思は私の意思です。何を恨むことがありましょう」
 迷うことなく言い切る巴を見つめる義仲。その表情はほっとしたように緩んだが、それでも僅かに複雑そうだった。
 
 
 宴に加わるかという義仲の誘いを辞し、巴は館を後にした。夜はとうに更けていたが、彼女は構わず山道を進む。やがて到着したのは、広々とした丘の上だった。
 夜風に長い髪をなびかせ、彼女は口を引き結んで佇む。ひんやりとした空気に、静かに目を閉じた。
「――巴」
 草を踏み分ける音がしたと思ったら、直後に名を呼ばれた。驚いて振り向くと、そこに立っていたのは先程まで館にいたはずの人物だった。
「今井の兄上」
 兼平は頷くと、巴に近付いてきた。横に並ぶその表情は、常日頃と変わらない。
「……殿たちはどうしたのです? 酒盛りをしていたのでは?」
「あいにく、二人とも酔いつぶれてしまいましてね」
 そう言う兼平は、全く酒を含んでいるとは思えないほど平然としていた。そういえば、この兄は酒に強かったと巴は思い出す。いつかの宴も、義仲が早々に泥酔してしまったのを見て苦笑していた覚えがある。
 実直で厳格な兼光とは違い、この兄はつかみどころがないと感じていた。今も、何故兼平がここに来たのか分からない。
「よくここにいることが分かりましたね。着けてきたわけではないのでしょう?」
 巴がここに来てからは大分時間が経っている。追跡してきたとしても、到着してから今まで、隠れて様子を伺うような人間でないことは十分承知だ。兼平は当然のように答える。
「それくらい予想は付きますよ」
 そう言って彼は、正面に顔を向けた。辺りに広がるのはどこまでも続く山々。月の光と、満点の星に照らされ、それらはぼんやりと浮かび上がっている。
「ここは、木曽の山全体が見渡せる場所ですから」
 巴は目を見開き、そして口をつぐんだ。何も答えず、黙って兼平と同じように、丘の下を見下ろす。
「巴」
 再度、兼平は呼びかけた。その声音は、平素と全く変わらない。
「本当に出陣する気ですか?」
 だからそう問われた時、巴は驚いて思わず兼平を見た。しかし、彼は正面を見据えたままだ。
「当然のことです。何を今更――」
「義高の『母』であるのは、お前も同じでしょう」
「!」
 意表を突かれ、巴は目を見開く。予想外の台詞に、彼女は二の句がつげなかった。しばらくの間の後、静かに呟く。
「……私は、義高の『母』ではありません」
 その声は、普段の彼女の姿からは信じられないほど弱々しかった。兼平はゆっくりと巴に向き直り、再び言葉を紡ぐ。
「どうしてそう言えるのですか? お前の思い込みでは?」
「いいえ、……その証拠に、あの子は私を『母』とは呼びません」
「『伯母上』と呼んだこともないでしょう」
 巴は顔を上げた。あの、無邪気な少年の笑顔が脳裏をかすめる。
 義高が、山吹と巴の微妙な間柄に戸惑い、巴を義母とも伯母とも呼べずにいることは知っている。巴と義高の関係は、親族というよりは、武芸の師と弟子という方が近かった。
 しかし、義高は確かに巴を慕っている。親子とも師弟とも断言できないが、それは真実だ。けれども。
「私は、義高の『母』にはなれません」
 巴は頑固だった。それ以上の追及を拒むかのように、きっと前を向く。
 巴は、手放すことを選んだのだ。それは決して義高を想っていないのではなく、ただそれ以上に大切なものがあるからで。
 自分は義高にぬくもりを与えてやれない。それは、自分の役割ではない。とうに分かっていたことだ。
 兼平は、何も言わなかった。彼自身、巴の参戦を止めたいわけではない。ただ、その覚悟を確認したかっただけだ。ひたすらに己の道を突き進む妹を、優しい瞳で見つめている。
 山吹とは違い、巴は義仲の子を産んでいない。しかし、巴はそのことを全く引け目に感じていなかった。
 自分は、一番自分らしい形で義仲に仕える。そしてそれは決して、妻という狭い枠に収まり、彼の館でただ夫の無事を祈ることではない。
 物心ついた時から、ずっと決めていたのだ。
 何事も、義仲のために。そのためならば、幾らこの手が血にまみれても構わない。
 そう信じて、ここまで来た。
「私は、殿の妻である前に、殿の従者です」
 ゆっくり、一言一言確認するように巴は宣言した。その意志の固さを示すかのように。自分自身に言い聞かせるかのように。
 迷いのない瞳で顔を上げる巴。その頭を、兼平の大きな手がそっと撫でた。彼は普段通りの、穏やかな表情で巴を見下ろす。
 それから、二人は無言のまま、ただ木曽の風景を眺めていた。
 巴は、山吹があれほど参戦を望んだ理由に気付いてはいなかった。義仲も兼光も同じだ。兼平だけがそれを察し、けれど誰にも教えることはしなかった。時折巴に注がれる、山吹のあの羨望に満ちた視線のわけを。
 東の空は白み始め、開戦の日はそう遠くなかった。
 

《終》

 

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