長元の雪
 
 簀子に出てすぐ、傍にいた女房に言づてを頼む。彼女は頭を下げると、急ぎ足でその場を去っていった。後一条はふと、視線を庭先に移す。じりじりと照りつける陽の光に、思わず手をかざす。
 ぱたぱたという足音に視線を上げると、先だっての女房が戻ってきたところだった。彼女は頬を上気させながら後一条の元にやってくる。
「お待ちしております、とのことでした」
「ありがとう」
 そのまま先導してくれる女房について、渡殿を進む。微かな風を感じ、ふう、と息をついた。足元の影は、だいぶ長く伸びていた。
「主上」
 通された部屋のなかにいた女性が、ぱっと顔を上げた。ここ、藤壺の主である威子その人だ。萌葱色の装束と、長い黒髪が床に広がっている。
「中宮、急にごめんね。一品宮は?」
「そろそろ戻ると思います。……ほら」
 壁代が上げられ、小さな影が飛び出してきた。ぽすん、と後一条にぶつかってくる。
「お父さま!」
 髪を綺麗に切り揃えた少女だった。今年で九つになる我が娘に、後一条は破顔した。
「宮、それはなに?」
「お父さまと一緒に見ようと思って」
 見ると、章子は絵巻物を大事そうに抱えていた。後ろからついてきた女房も、何巻か運んでいる。どうやら、後一条の来訪を聞き、これを取りに行っていたようだった。
「貸してご覧」
 章子から巻物を受け取り、紐をほどく。腰を下ろし、ゆっくりと広げた。
「わあ、綺麗」
 派手さは控えめながらも精緻な絵柄に、章子が身を乗り出してくる。彼女の反応に興味を惹かれたのか、威子がそわそわとこちらを窺っている。後一条は苦笑しながら呼びかけた。
「中宮もおいで」
 威子が照れたように顔を赤らめた。いそいそと章子の背後から覗き込む。
「雪景色ですね」
 それは、季節の様々な行事を描いた絵巻だった。雪が残る初春の、白馬節会を描いた情景が広がっている。
「これはお父さまですよ」
「そうなの?」
 威子は、奥に描かれた建物の、御簾の向こうにいる人物を指してみせた。驚いた様子の章子に、後一条は割と真剣に首を傾げた。
「うーん、どうだろうね……」
 確かにそこで馬を覧じているのは帝なのだが、後一条自身か、と問われると何と答えたものか。くすくす、と威子が口元を隠す。
 読み進めていくと段々季節が移ろっていくのがよく分かった。春めいた花のなかに、着飾った公達が描かれている。
「春日祭だね」
 祭の花形である勅使を描いた場面だ。後一条の言葉に、章子が公達を指差す。
「これはだあれ?」
「誰? ……誰かなあ」
「春宮大夫の二郎君とか……?」
 威子が現任の少将である甥の名前を出す。ふうん、と章子の反応は鈍かった。あまりしっくりきていないらしい。急かすように、巻物を押さえる後一条の手をつついてきた。
「わたしが開いちゃ駄目?」
「いいけど、勢い余って転がさないようにね」
 あんまり開きすぎると、綺麗に巻き直すのもひと苦労なのだ。神妙な顔で頷いた章子だったが、巻子を広げる手つきは存外思い切りがよい。絵巻のなかで、あっという間に季節は夏になってしまった。
「可愛い葉っぱ!」
 特徴的な形の植物が、公達の冠や、牛車の飾りなど、至るところに描かれている。
「これは葵だよ」
「賀茂祭ですね」
 章子の肩に手を置いた威子も頷いている。両親の言葉に、章子の顔がぱっと輝いた。
「なら、これは大きくなった二の宮ね!」
 祭に奉仕する斎王を示し、にっこりと見上げてくる。後一条は、思わず威子と顔を見合わせた。
「……ええ。二の宮も、将来はこんな素敵な姫君になるんでしょうね」
 ゆっくりと、威子の口元がほころんでいく。ほっそりした手が章子の頭に伸び、ゆっくりと撫でた。ふふ、と笑った章子は、何か要求するような目つきで後一条に視線を向ける。よしよし、と同じように撫でてやると、彼女はすっかりご満悦だ。
 再び絵巻物に没頭し始めた愛娘を眺めながら、後一条は威子の耳元に口を寄せた。
「こんな風に立派になった二の宮を見たいのはやまやまだけど、大人になるまで戻ってこないのは寂しいよね」
「はい……。でも、すぐに退下するようなことになっても良くないですし、複雑です」
「中宮は時々でも会えるからいいけどさあ」
 僕なんか下手をしたら顔を忘れられてしまうよ、と。わざとらしく拗ねて見せると、威子はふふ、と笑う。その表情は、先ほどの章子のものとそっくりだった。
 でも、と後一条はかぶりを振った。威子の指先を握り締める。
「きっと、いい子に育っているんだろうな。会う日が楽しみだよ」
「そうですね。……いつかまた、四人で暮らせるその日まで」
 威子のその言葉に、先ほどの女院の台詞が蘇った。
 
“いざというときは、手放してやるのも愛情の形かも知れませんよ。そこは、きちんとお考えなさいませ。”
 
 いいや、と後一条はその呼びかけを打ち消す。先ほど威子は、「四人で」と言った。彼女が思い描く幸せな未来には、後一条もいる。ならば、きっとその選択肢は正しくない。
「主上?」
 再度握られた指先に、威子が怪訝な顔をする。何でもないよ、と後一条は微笑みを向けた。しばらくして、彼に応えるかのように握り返してくる。
 この判断は、生子の入内以上に威子を苦しめるものになるのかも知れなかった。それでも、どうか可能な限りはこのままで。
 暑さの盛り。暦が秋に変わるまで、残すところ数日であった。
 

《終》 あとがき

 

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