最期の誤算
 
 私は皆から愛されてきた。
 両親は遅くに生まれた末娘である私をことのほか慈しんでいたし、兄姉たちも年が離れていたから、喧嘩らしい喧嘩をすることもなく、めいっぱい可愛がってくれた。特に長姉は、自身が産養までつとめた私をまるで娘のように思ってくれたのだろうか、何かにつけて気にかけてくれる。
 
 思えば私は、昔から要領が良かった。
 物心ついた頃には、父は廟堂で確固たる地位を築いていて。私は生まれたときからその恩恵を受けて育った。
 中宮様となったすぐ上の姉から引き継ぐ形で尚侍となり、裳着を迎え、やがて結婚の話が舞い込んだ。
 お相手は、長姉が産んだ皇子様で、現在の東宮様。
 二つ違いの私たちは、幼い頃から馴染み深い間柄で、姉弟のように遊んだこともある仲だ。父や姉は、無邪気に戯れる私たちに目を細めながら、既にこの未来を思い描いていたのかも知れない。ともかく、東宮様との結婚に不満など一つもなく、それどころか疑問にすら思わなかった。当然のように私は妃となり、父や長兄の後ろ盾のもと、東宮様の唯一の女(ひと)として寵愛を一身に受けた。
 東宮妃となって四年目を迎えようとしていた、そんなときに私が懐妊したのは、いささか空気を読まない出来事だったのかも知れない。
 もちろん、子を身籠もったのはめでたいことだし、東宮様は当然として、父も兄たちも、知らせを聞いて非常に喜んでくれた。
 しかし、東宮様の一つ上の兄君に当たられる主上には、いまだ皇子がおられない。主上には中宮様がただ一人の后として侍っていて、今か今かと皆が皇子様の誕生を待ち望んでいる状況だった。
 そんななかで、皇太弟の妃が中宮様に先んじて孕んだとあっては、喜ばしいことには違いないけれど、多少の間の悪さは否めなかった。
 とはいえ、主上も中宮様も、私の懐妊を言祝いで下さったし、表立ってとやかく言う者など誰一人としていない。私とて、複雑な思いを抱いているであろう姉の心境などまるで気づかぬよう、ただただ幸せそうに振る舞っていた。
 
 夏になり、私は出産の準備のため、実家である土御門第に移ってきた。そこでは父や母だけではなく、今は太皇太后様となった長姉までもが里下がりしてきて、私のために心を砕いてくれた。
 六月の終わりに、東宮様の行啓があった。久方ぶりにお会いするあの方は、私を見るとにっこりと笑顔を見せて下さった。
「尚侍。久しぶりだね、体調はどうだい?」
「変わりありませんわ。こうも暑いのには参りますけれども」
 薄手の装束を羽織ったまま出迎えると、東宮様は照れくさそうにはにかんだ。
「来月が産み月だって?」
「はい。ようやく、ですね」
「何か欲しいものとかはない?」
「えっと……」
 月が改まり、秋になるまで東宮様のご滞在は続いた。季節は七月。予定では、そろそろ出産となる。
 ここ、土御門第は主上や東宮様がお生まれになった場所でもあった。ただそれは、私がうんと幼い頃のことで、記憶にあるわけではない。私が印象深く覚えているのは、それとは別の出来事。あのときも確か、今と同じような季節だった。
 私がまだ六つか七つの頃、当時の中宮様であった二番目の姉が、出産のために里下がりしてきたのもこの邸だった。父たちはその世話に追われていたため、必然的に私に構う時間も少なくなっていた。もうすぐ帝のお子様がお生まれになる、と女房たちから言い聞かされていた私は、わくわくしながらその日を心待ちにしていた。
 そして、無事に姉が出産を果たしたのち。
「おとうさま!」
 出産後の諸事に追われて慌ただしい邸内で、人目を盗んで自室を抜け出した私は、数日ぶりにまみえる父に駆け寄り、それから我が目を疑った。
 父は、今までに見たこともないような険しい顔をしていたのだ。しかしその表情も、私が傍にいることに気づくと、すぐにいつもの柔らかいものに変わった。
「ああ、姫。どうしてそんなところにいるのだい」
「……おとうさま、なにかあったの?」
 不安そうな私の問いに、父は一瞬だけ虚を突かれたような顔をして、それから「何でもないよ」と私の頭を撫でた。
 そのときは、何が父にあのような表情をさせていたのかも分からず、ただ恐ろしかったけれど。今ならばあのときの父の気持ちが分かる。
 姉が産み落としたのは、皇女様だったのだ。皇嗣となる男皇子を切望していた父にとって、生まれたのが皇女であるという事実は、期待にそぐわないものだった。
 ――だから、もし。私のお腹にいるこの子もそうだったら。
 今まで人一倍甘やかし、大事にしてくれた父も、あの表情を私に向ける日が来るのだろうか。
 出家の身でありながら、私の身を案じて世話を焼いてくれる父の笑顔を見ながら、私はそのようなことを考えていた。
 
 皆の期待に反して、お腹の子はなかなか出てくる気配がなかった。巷では赤裳瘡が流行り始めた頃、長く患っていらした院女御様が亡くなった。彼女は私の異母姉に当たる人だった。
 どうやら、私の産事にかまけて、父はなかなか思うように彼女の見舞いに訪れることができなかったようだった。訃報を聞いたときは、もしかしたら、あちらの方々に恨まれてしまったかも知れないな、と思った。
 それからしばらくして、私も赤裳瘡に罹患してしまったときは、院女御様の元に現れたという怨霊の話を思い出した。ただそれも、今は幸い快方に向かっている。父も母もひどく心配したが、最近になってようやく安堵の表情を見せてくれた。
 そして、八月に入った頃。私は晴れて身二つとなった。
 お生まれになったのは男の王子(みこ)様で。それは東宮様のご誕生以来、実に十六年ぶりの慶事だった。
 元気な男の王子様ですよ。そう女房に伝えられたとき、私の心に去来したのは歓喜でも、安堵でもなく。
 ああ、やはり。私は随分と要領がいいらしい、と。不思議と納得してしまった。
 きっとこれは、栄華の始まり。やがて長姉のように国母へと昇り詰める道の、第一歩なのだと。そう信じて疑わなかった。
 
 朦朧としていてあまり覚えていなかったけれど、王子様がお生まれになるまではひどい難産で、今まで何度も産事に居合わせた経験があるはずの両親が涕泣するほどだったという。
 出産については問題なく終わったが、何故か私の体調が戻る様子はなかった。
 きっとこの時期はこうなるものなのだろう。最初は騙し騙し過ごしていたが、気分は悪くなっていく一方で。
 すぐ近くでは、王子様の御湯殿の儀が行なわれている。賑やかな声にいざなわれるように、私はするりと褥を抜け出した。
「まあ、尚侍。危のうございますよ」
 几帳の陰から様子を窺う私に気づき、女房がこちらにやってくる。王子様の元気な泣き声が聞こえる。少し背伸びをすると、そのお姿も少しだけ見ることができた。じわりと目元に涙が滲むのを感じ、途端に足元がふらつく。
「おお尚侍、お気をつけ下さい」
 すると、屏風の後ろに控えていた父が飛んできた。まるで幼子を心配するようなその様子に、思わず笑みがこぼれた。
 
「お父様はこの有様を、どのようにご覧になられますか」
 御湯殿の儀を済ませ、身支度を整えられた王子様が、私の横で眠っている。父は予想通り、にっこりと破顔した。
「まことに素晴らしいことと思っておりますよ」
 その表情は、私がお産み申し上げたのが王女様でも、見ることができたのだろうか。
 内裏にいる中宮様は、この光景を見たらどう感じるのだろうか。
 高松殿の皆様は、院女御様の葬送にも供奉できなかった父が、今このように笑っていることを知ったら何を思うのだろうか。
「尚侍?」
 心配そうに顔を覗き込んでくる父の目に、私の表情はどう映っていたのだろうか。私は小さく首を振った。
「何だか……先ほどから、ひどく気分が悪いのです」
 
 床に就きながら、私がこの世を去った後のことを考える。
 この世に未練はなかった。皆、私を愛してくれたし、充分幸せを享受できたのだから。私が望んだことは皆叶ったし、皆が望んだことも私は叶えることができた。このまま皆に愛されて逝くのなら、それもまた良い。
 生まれたばかりの王子様の行く末に不安はない。私がいなくても、父が、長兄が、長姉が必ず後ろ盾となってくれる。この先、主上に皇子様がお生まれになるかも知れないけれど、きっとその皇子様の次に東宮になるのはあの子に違いない。
 できれば、もう一度くらい東宮様のお顔を拝見したかった気もするけれど――行啓までして頂いたというのに、これ以上を望むのは贅沢というものだろう。
 加持祈祷の音がだんだんと小さくなっていく。私に呼びかける、父や母の声も遠のく。それと同時に、あんなに調子が悪かったのが、少しずつ薄らいでいくのが不思議だった。
 

《終》 あとがき

 

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