寛仁の月
 
 威子の心情を読み取ったように後一条は頬を膨らませたが、ふと表情を戻し、向き直った。
「……尚侍、どうしたの?」
「え?」
 唐突に問いかけられ、威子は戸惑いを隠せない。
「さっき、凄く哀しそうな顔をしてた」
「!」
 御帳台の外での話だ。見られていたのか、と威子は焦るがどうしようもない。後一条は威子の顔を覗き込み、不安げに眉尻を下げた。
「ねえ、何か嫌なことでもあったの? だからそんな顔――」
 心の底から威子を案じていることがありありと伝わり、途端に申し訳なくなる。威子は更に口を開こうとする後一条を押しとどめた。目を閉じ、首を横に振る。
「……何でも、ありません」
 まさか、この入内を憂いていたなどとは言えない。本人の前で、言えるわけがない。しかし、後一条は納得していないようだった。それ以上の問答を拒むため、威子は続ける。
「先ほどは、主上をお待たせしてしまいましたね。申し訳ございませんでした」
 素早く話題をすり替え、頭を下げる。瞬時に後一条の顔が傷ついたように歪んだが、威子の瞳にその表情が映ることはなかった。
 そのまま、沈黙が舞い降りる。頭を垂れたまま顔を上げようとしない威子に、後一条はどうすることもできず、同じように視線を落とした。
「……尚侍が……」
 俯いたまま、弱々しく発せられた言葉に、威子ははっとした。まるで泣いているかのような声音に、咄嗟に顔を上げ後一条を見るが、その瞳は濡れてはいなかった。
「……尚侍が言いたくないなら、僕はもう訊かないよ。でも……」
 身を乗り出し、威子の顔を正面から見つめる。後一条の瞳が、揺れた。
「……哀しいのは、尚侍はここに来たくなかったから……?」
 握り締めた小さな拳は震えていて、それは後一条が最大限の勇気を振り絞った上での問いだということを示していた。何故なら、威子がここで是と答えることは、後一条にとっては自分を拒まれたことと同義だから。
 どうか違っていて欲しい。答えが聞きたい、いや聞きたくない。
 拒絶されるのが怖くてたまらない――。
 核心を突いた問いかけに、威子は息を呑んだ。僅かに潤んだ瞳に、胸が痛む。
(私――)
 後一条を傷つけてしまった。威子の迷いが伝染し、不安が不安を呼び起こし――その結果がこれだ。それに気づくと同時に、威子は更に深い罪悪感に苛まれる。
 それでも、後一条に対して正直な気持ちを吐露する気にはなれなかった。それを伝えてしまうと、ますます彼は傷ついてしまう。威子を慕っていれば、その分だけ。――例えそれが、恋情というにはあまりに幼い感情だったとしても。
 答えることができずに、威子の顔が歪む。その様子に慌てたのは、同じように悲痛な顔をしていた後一条だった。
「尚侍!? どうし――」
「ごめんなさい」
 そのまま背に腕を回され、後一条は続く言葉を発することができなかった。息を呑むと同時に、彼の小さな身体は、威子の腕の中にすっぽりと収まってしまう。
 情けなかった。こんなに稚い少年を不安にさせてしまったことが。
 ――自分は、年上なのに。
 そのことを、今はっきりと自覚する。
 不釣合いな婚姻。それは決して覆せない。でも。
(主上を、不幸になんかさせたくない――)
 弱々しく消え入りそうな姿を目の前にし、威子は気づいたのだ。この無垢な子供が、辛そうにしている様子は見たくない。まして、自分のせいでなんて。
 抱き寄せた身体は、僅かに熱を持っていた。優しく身体を寄せたまま動こうとしない威子に、後一条は戸惑いをあらわにする。
「……尚侍?」
 威子はしばらく、この心地よい温もりに身をゆだねることにした。そして再び後一条の耳元で「ごめんなさい」と囁くと、ようやく彼を解放する。
 少年の肩に手を添え、威子は目線の高さを合わせた。薄暗い御帳台の中だったが、闇に慣れた瞳には、いつもの後一条の姿がきちんと映る。
「もう、大丈夫ですから」
「……え?」
 威子の気持ちが変わったわけではない。目の前にいる少年はあまりにも幼くて、添い遂げる相手とは到底考えられなくて――でも、だからこそ守っていきたいと思えた。
 無理に「夫婦」となる必要はない。別に叔母と甥の関係だって構わない。やっと、そう気づくことができた。
 威子は優しく微笑むと、後一条の頬にそっと触れた。そしてそのまま寝かしつける。
「お休み下さい、主上」
「え、でも……」
 されるがまま褥に身体を横たえるも、急激な様子の変化に後一条は困惑気味だ。威子の笑顔を不思議そうに見上げる。
「私が、お傍におりますから」
 怪訝な顔をした後一条は、それでもその言葉には安心したようだった。ほう、と息をつき、そのまま目を閉じる。威子は上体を起こしたまま、あやすようにその頭を撫でた。彼女の瞳に、先程までの憂いはない。
 小さく聞こえてくる、規則正しい寝息。あどけない寝顔に、笑みがこぼれる。その様子は、とてもこの国を背負い立つ君主の姿には見えない。でも。
 もし、彼が帝位に就くことが、天から与えられた使命だったというならば――きっと、その彼を支えて生きることこそが、威子の天命。
 そのことを心に刻み、威子は小さな微笑を口の端に乗せたまま、しばらく後一条の安らかな寝顔を眺めていたのであった。
 

《終》 あとがき

 

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