万寿の花
「主上……」
威子はしばらく何も言えなかった。夫の本心からの言葉は、この上もなく嬉しい。しかし。
彼女は首を振った。いいえ、と弱々しく囁く。
「お気持ちは、嬉しいです。でも、私は……」
視線を合わせることは、できなかった。俯き、目を逸らしたまま心境を吐露する。
「――男の子を、産みたいんです。もう、あんな想いはしたくないんです……」
後一条は、それでいいかも知れない。しかし周りはそれで納得はしないだろう。世間の冷たい反応の矢面に立たされるのは、威子と産まれてくる子供だ。彼ではない。
繰り返し首を振る威子に、後一条は寂しげな顔を向けた。
「……確かに、あのときはつらかったかも知れない。でも、中宮までそんなことを言わないでよ。それじゃ、あまりにも姫宮が可哀想だ」
章子内親王のことを話題に出され、威子はぴたりと動きを止めた。恐る恐る後一条を見ると、彼は薄い微笑を浮かべていた。強ばった表情の威子に、優しく問う。
「姫宮を産んだことを、後悔してる?」
率直な質問に威子の肩が揺れた。思わず俯き、しばらくして否定の意を示す。
残酷なことを訊く、と思った。
そのようなこと、問われるまでもなく、答えは決まっている。
瞼が熱い。自分がどのような顔をしているかを見られたくなくて、俯いたまま威子はようやく言葉を返す。
「……悔しいんです」
「……うん」
何が、とは問い返さない。ただ静かに、次の台詞を待っている。
「男皇子でも女皇子でも、私にとっては可愛い子供です。でも、周りはそうは思ってくれません……。何だ、また皇女か、って――そんな言葉、聞きたくないんです!」
歯を食いしばりつつ、威子はとめどなく溢れる感情をさらけ出した。今まで誰にも言わず、心の奥に秘めていたこと。
夫には、告げずにいようと思っていた。自分が苦しんでいると知れば、きっと彼は心を痛める。重荷になるようなことはしたくない。そう思っていたはずなのに、一度口にしてしまったそれはもう、途中で止めることはできなかった。
ぽろぽろと目から滴が流れ、袖に染みを作る。涙をぬぐおうとした手を、後一条がそっと掴んだ。
「……例え、皆から祝福されないとしても。だったら尚のこと、僕たちが慈しめばいい」
はっと威子は顔を上げた。後一条は、笑っていた。
「僕は、男の子でも女の子でも嬉しいよ。それは、姫宮だって同じだと思う」
弟か妹の誕生を心待ちにしている、幼い娘の姿が浮かんだ。何も言わない威子に対し、後一条はいつも通りの曇りない笑顔で、こう尋ねる。
「中宮はそれじゃ不満?」
威子は虚を突かれた顔をし、目の前の夫をじっと見つめた。しばらくの間の後、瞼を閉じて小さく首を振る。その反応に、後一条は満足げに頷いた。
握られたままだった手。それに一度、ぎゅっと力を込めた後、後一条はようやくその手を解放した。握り締められた温度が、威子を勇気付けてくれるようだった。
乾きかけた涙の痕をこすりつつ、威子は呟く。
「主上は、お強い方ですね……」
その言葉は、後一条にとって思いがけないものだったらしい。心底驚いた顔をした後、即座に反論される。
「そんなことはないよ。強い人は、子供が一人産まれるくらいでこんなにびくびくしないんじゃないかな」
苦笑する後一条に、威子は静かに言った。
「そういうことじゃ、ないんです」
それだけ言うと、威子は額を後一条の肩に押し付けた。後一条はその行動に戸惑ったようだったが、憂いを取り払った威子の様子に安心したらしく、抗うことはなかった。
威子は身体を寄せたまま、静かに問いかけた。
「……主上」
「何?」
後一条の声は穏やかだった。その温かさが心地よい。
小さく口元に微笑を浮かべ、威子はかつてないほど安らいだ気分で、小さく尋ねる。
「――たまには、こうして甘えてもいいですか?」
ひどく子供っぽいことを言っていると思った。今までの自分なら、決して口にしなかっただろうその言葉。
けれど、気付いてしまったから。
支えになりたいと願いつつ、逆に助けられてしまう。以前なら、それを不甲斐ないと感じただろう。でも、それはもうおしまいだ。
年上だ、叔母だと気を張るのはもうやめる。これからは共に支えあって、並び立って生きていきたいと、素直にそう思った。
後一条からの返事はなかった。返事などせずとも、分かっていた。優しく背に回された手が、何よりの証拠だ。
威子は、まだ見ぬ命の宿る腹部に、そっと掌を当てた。
微かに感じる胎動に、心からの幸せを感じた。
やがて威子が産んだ二人目の子は、皇女だった。
後に馨子と名付けられる嬰児の誕生に、周囲の反応はひどく冷ややかだった。慰めの言葉もない、というように女房たちが恐縮する中、威子は産まれたばかりの我が子を抱いた。
己の持つ力を振り絞り、産み落とした赤子。周りの大人たちの心情など全く知らず、元気に泣いている。その様子に、自然と笑みがこぼれた。
あれほど恐れていた女児の誕生。それにもかかわらず、威子の心に負の感情は微塵もなかった。ただ、己の腕の中に、その子がいるという事実が、とても嬉しい。少し前まではひどく気に病み、悩んでいたことが不思議なほどに。
いとけない愛し子を胸に抱き、あやしながら威子は心の中で語りかけた。
大丈夫、あなたは誇りを持って進めばいいの。
誰に何を言われたとしても、これだけは忘れないで。
あなたが、祝福された子だということを――。
《終》 あとがき