散紅葉(ちりもみじ)
 
 簀子の角を曲がった直後、高欄に手をかけて野外に身を乗り出す妃の姿が目に入った。
 思いがけぬ光景に束の間、思考が停止する。ようやく状況を把握したと同時に、重苦しい溜息が漏れた。
 
 ここ、閑院第に設けられた尊仁の直廬は、茂子の直廬と目と鼻の先の距離しかない。おまけに昼間だというのに人少なで、わざわざ女房を引き連れて行くのも煩わしかった。
 御簾をたなびかせる秋風に冬の寒さを思い出させる時節。徒然に漢籍を開いては閉じ、また開いては閉じを繰り返していた尊仁が、ふと茂子の居室を訪ねてみようと思い至ったのは、そんなときだった。
 
 不意に現れた夫の存在を感知する様子もなく、茂子の様子はただただ真剣だった。一体何をしたいのか理解に苦しみかけ、直後、彼女の手が近くに生える紅葉の葉に差し伸べられていることに気付く。どうやらあれを取りたいらしい。
 白い指先が一瞬触れるも、すぐに弾かれてしまう。爪先立ちになって何度も手をばたつかせる動作はなかなか微笑ましくもあったが、あの調子で勢い余って庭先に墜落されても困る。考えあぐねた尊仁はずんずんと近付いていき、茂子に居並んで腕を伸ばした。
「――ったく」
 見ていられないというように小さく舌打ちし、ぷつりと枝を手折る。少女の手では僅かに届かなかったそれは、いとも呆気なく彼女の目の前に差し出された。
「これくらい、適当な下女にでも申し付ければ済むものを。幾ら人目がないからといって――」
 説教交じりに向き直る尊仁の唇が静止した。正面に立ち尽くす茂子の様子が何かおかしい。
 ぽかんを口を開けて尊仁――正確には彼に摘まれた紅葉を見つめ、それから呆けた顔で夫を見上げる。その表情からは、先ほどの緊張感は消え失せている。やがてのろのろと、独り言のように呟いた。
 
「あ……取っちゃった……」
 
 ご所望の品を得て歓喜の笑顔を向けられることを期待していた尊仁は、まるで予想外の反応に当惑した。思わず茎を握り潰しそうになる。
「なっ、……だってお前、これを取ろうとしてたんじゃ」
 狼狽する尊仁に、茂子はどこか憮然としながらも淡々と答える。
「私はただ、触ろうとしていただけです」
「……だったら手折ったところで問題はないだろう」
「むやみに草木を傷つけることは嫌いです」
 平素、感情の起伏が少ない茂子だが、このときばかりはきっぱりと言い切った。口調は激しくないものの妙な気迫を感じ、尊仁は軽くたじろぐ。
 考えてみれば、茂子は草花が好きなくせに、それを文と一緒に届けたことは一度たりとしてなく、たまに送られてくる手紙は素っ気ないものばかりだった。尊仁は尊仁で、茂子が喜ぶのはどれだろう、などと毎回苦心しつつ添える花を選び出していたのだが、道理で芳しい反応が得られなかったはずである。
 しかし、今更それを主張されたところでもう遅い。尊仁の手の中で、紅葉がしょんぼりと項垂れるのみだ。それの処遇に困り果てた末に、彼は結局茂子に差し出す。
「……だからと言って、そこに棄てても仕方がない」
 茂子はしばらくの間それを見据え、ゆっくりと手を伸ばした。そっと受け取り、ちょんちょんと葉をつついてみる。その顔に、ようやく正の感情が宿った。
 勝手なものだ、と思う。尊仁の所業には責め立てたくせに、やはり間近で見られて嬉しいのではないか。
 紅葉を日に透かして眺め続ける茂子に痺れを切らし、尊仁は反対の腕を掴んだ。室内に引き入れようと力を込める。
「もう満足だろう? いい加減、中に入れ」
「嫌です」
「誰に見咎められるか分からないんだ。お前はもう少し、東宮妃としての自覚をだな――」
「嫌」
「こんなところでは風邪を引く」
「構いません」
「……大夫に言いつけるぞ」
「どうぞ」
 もはや尊仁など茂子の眼中にない。ぐいぐい引っ張られていることすら、気付いているかも怪しい。
 切り札のつもりで茂子の養父の名を出したもののあっさりはねのけられ、尊仁は言い募るすべを失った。本気で告げ口などできるはずもない。尊仁は能信が苦手な上、仮にそのようなことを伝えたなら、自分が同い年の妃を諌めることすらできないと露見させることになるではないか。
 押し黙ってしまった尊仁をちらりと一瞥し、茂子は無表情で告げた。
「風邪を引きたくなければ、東宮様お一人で戻って下さい」
 そう言うとぺたんと簀子に腰を下ろしてしまう。頑としてここを動かないつもりだ。
 生憎、心配されるほど柔ではない――とは言い返せなかった。何しろ、尊仁には前科がある。以前、諸事情により雨の中で紅葉見物をした結果、見事に寝込んでしまったという過去が。ほぼ同じ条件下にあった茂子はけろりとしていたにも関わらず、だ。
 こうなってしまえばもう、何を言っても無駄だ。尊仁はそれを悟ると、無遠慮に茂子の直廬に入り、袿を抱えて戻ってくる。それをばさりと茂子の肩にかけた。
「せめてこれを羽織っていろ」
 ぶっきらぼうに言い捨て、どすんと茂子の横に座る。彼女は覆い被さってきたものの端をつまみ上げ、隣の少年をぼんやりと見遣った。
「……東宮様は?」
「必要ない」
 せめてもの意地だった。これでまた体調を崩したら大恥だが、雨ざらしだった前回に比べれば此度は遥かにましだ。流石に大丈夫だろう。
 不思議そうな顔をしていた茂子だったが、すぐに視線を戻してしまった。彼女にとって、尊仁が隣にいようといまいと大した問題ではないのだろう。小さな紅葉の一欠片に向ける、十分の一ほどの関心すら寄せやしない。
 傍らに人無きが若(ごと)し――そんな単語が脳裏をよぎる。茂子は出会ったときからこうだ。尊仁が時の東宮だということも、自分がその妃としてはいささか不釣合いな身分だということも、彼女には大した問題ではないのだろう。
 尊仁の元服の二日後、添臥として参内した茂子は、たかが故・中納言公成の娘とあからさまに見下げた態度をとる尊仁を、怖気づくことなく正面から見据えた。ただ恐縮して身をすくませるか、機嫌を取ろうと愛想を振りまくのが精一杯だろうと高をくくっていた尊仁は、思わぬ反応に驚かされたものだ。
 そのようなことを思い出しながら、尊仁は横目で茂子の様子を確認するが、彼女はこちらを見向きもしない。このまま放っておかれるのも腹立たしいので、尊仁は横から強引にひょいと覗き込んだ。
「大体、これに触れて何をしたかったんだ?」
 茂子の小さな手に重ねるようにして、その茎に触れる。彼女は葉の紅からじっと目を離さず、小さく呟いた。
「……温かいのかどうか、確かめたかったんです」
「……は?」
 予想だにしなかった返答に尊仁は眉を寄せ、思わず間抜けな声を出してしまった。しかし、茂子は当然のように続ける。
「だって、こんなにも真っ紅で、まるで燃えているみたいだったから」
 愛しそうに表面を撫で、独りごちる茂子。その彼女の頬を、柔らかな風がかすめた。
 紅から温かさを連想するのは、まあ分からないでもない。しかし、それと秋空の下、寒さに晒される紅葉と結び付ける感覚が、尊仁には理解できなかった。
 茂子の突飛な発想は、時として尊仁を混乱させる。
「……それで、実際触ってみた感想は?」
 先だって触れた折は、むしろひんやりしていた気がするが、と尊仁は心中で思い返す。その言葉に茂子はじっくりと葉を見つめ、考え込むように瞼を閉じた。
「んー……思ったより冷たいです」
 悩んだ末に出した結論は、茂子の当初の予想とは違うものだったが、その表情に失望の色は皆無だった。うんうんと頷き、悦に入ったように口元を緩める。
 邸内は相変わらず静まり返り、辺りに人影はない。そのお陰で、こうして二人はのんびりと庭先を眺めていられるのだが、尊仁にとってそのことは一方で苦々しくもあった。
 傍らの少女は気付いているのだろうか。どうして、この閑院第がこんなにも寂寞としているのかを。
 尊仁とて、もう二年前のような子供ではない。当時は分からなかった事柄も、時と共におぼろげに見えてくる。何故、「大納言能信の養女」――その実は「亡き中納言公成の娘」程度の妃を迎えざるをえなかったのかも。
 茂子は身分不相応な己を恥じはしないし、尊仁が満足に公卿との結び付きも築けない、日陰の東宮であるという事実を嘆きはしない。今では、そのことが救いだった。
 でも、妃という立場に頓着しない茂子にとって、この状況は籠の中に閉じ込められたも同然だろう。
 手の届かぬ紅葉の一片を掴み取ろうと背伸びする彼女の姿は、外の世界への憧憬から飛び立とうと願う蝶にも似ていた。
 物思いにふけりつつ、小さく息をつく。ふと少女の姿を確認すると、今は半蔀に背を預け、秋の風景を楽しげに見つめていた。現実に引き戻された尊仁は、膝を抱えてその場を動こうとしない茂子が妙に遠い存在に思えて、気が付いたら問いかけていた。
「……お前は、どの季節を一番好む?」
 自分でもいささか唐突な質問とも思った。案の定、きょとんとして茂子は振り向く。
 もしかしたら、何を考えているのか分からない彼女を、少しでも繋ぎ止めたかったのかも知れない。
 春は梅がほころび始めたと言っては喜び、夏は緑が濃くなったと笑い。秋は紅葉の鮮やかさに目を丸くし、冬になれば銀雪の煌めきが目映いと言う。
「…………」
 無言のまま茂子は立ち上がり、高欄に歩み寄った。身の丈に少し足りない髪が揺れ、袿の裾にまとわりつく。
 何かを思案するように佇んだのち、茂子はようやく言葉を紡ぎだした。
「……選べません」
「え?」
 尊仁が不審そうに顔を上げるが、茂子は振り返らない。正面を向いたまま、構わずに続ける。
「……新しい年の始まりと共に命が芽吹きだして、日に日に暖かくなり、花も鮮やかに咲き誇って……」
 唐突に語りだした茂子に、尊仁はますます訝しげな顔をする。咄嗟に口を開きかけ、結局思いとどまった。少女の話を聞き漏らさぬようにと目を閉じ、静かに耳を澄ませる。
「しばらく雨が続いたと思ったら、いつの間にかひどく暑くなって。蝉の声は賑やかだし、夜は蛍が舞う時期……」
 秋の柔らかい日差しが、簀子に二人分の影を作っている。時折さらさらと囁く木々の他は、茂子の話を遮るものはない。
「どこか物悲しい風が混じり始めて、蝉の鳴き声は鈴虫の歌に変わる。今みたいに葉っぱが色付きだすのは大分肌寒くなった頃……」
 平淡な口調の落ち着いた声が、尊仁の耳朶を撫でる。
 茂子は庭の風景を眺めているようで、本当はもっと遠くを見ているのかも知れない。彼女の視線はこちらからは分からなかったが、その瞳には尊仁とは別のものが映っているように感じた。
「そして次は、多くのものが最期を迎える季節……」
 ざわ……と草木が一斉にざわめく。茂子は俯き、目を閉じた。
「綺麗に染まっていた葉も朽ち果てて、地に落ちて、生き物もひっそりと息を潜めてしまって。やがて雪が全てを覆い隠してしまう……」
 少しずつ少しずつ、瞼裏に映る光景をなぞるよう丁寧に。そこまで話すと、茂子はゆっくりと振り返り、初めて尊仁を見た。
「……始まりがあって、終わりがあって、そこに辿り着くまでの過程全てが美しくて。その流れを四季という、たった四つのくくりに分けてしまうなんて変です」
「…………」
 珍しく饒舌な茂子のその言は確かに理にかなっているように思えて、尊仁を圧倒させた。何も言えずに唇を引き結んだままの彼に、茂子は語りかける。
「大輪の花や、紅葉が錦を飾るときだけを素晴らしいとは思いません。例え年老い朽ち果てても、実を結ばなくても――咲くことさえ叶わなくても、滅びの一瞬まで向き合いたい。そう思います」
 そして茂子は口の端を緩め、ふわりと笑いかけた。
 その貴重な笑顔は、木漏れ日のような優しさに加え、大木を支える一本の幹のような強さを感じさせるもので、その表情を目にした尊仁は、どきりと心臓が波打つのを感じた。茂子から目を離すこともできず、固まったままだったが、その火照った心に、やがてじわじわと温かい安堵が広がっていった。
 藤原氏の嫡流から外れ、后妃という身分とは無縁のはずの家に生を受けた茂子。それが紆余曲折の末に東宮妃として入内することとなり、そのせいで彼女は自由に空を舞うための羽をもがれてしまった。妃となるべく育てられたわけでも何でもない茂子にとって、東宮御所に繋がれる日々はただの重荷でしかないと。そう、思うときがあった。
 でも、今の言葉を聞いて心が晴れた。
 思わぬ悲運に見舞われたとしても、決して目を背けはしない。真っ向から受け止め、そして受け入れると。そう言われた気がしたから。それは抵抗するすべを持たない弱さではなく、それに打ち勝とうとする強靭さだ。
 きっと、この少女にとっては妃という立場など、その羽を打ち据える楔にすらならない。初めから彼女は、鎖に囚われた蝶などではなかった。
 唖然として茂子を凝視したままの尊仁に、茂子は首を傾げてみせた。
「……東宮様?」
「あ……いや、何でもない」
 声をかけられて初めて気付いたのか、尊仁は慌てて首を振ると、誤魔化すように目を逸らす。その頬は微かに赤らんでいた。
 美人でもなければ、愛嬌もない。管弦や和歌の才にも秀でているわけではない。どこかぼうっとしていて、何を考えているかもよく分からない、そんな少女。
 だからこそ、ごくたまに覗かせる穏やかな笑顔に、こんなにも動揺してしまうのかも知れない。
 再び空を見上げた茂子の視線を追うと、秋の空に浮かぶ白い月が目に入った。
 これから訪れるのは、いつ終わるとも知れない、長く果てしない極寒の冬。その雪解けの日を、二人並んで迎えることができるのか――。それが分かるのは、二十年ほど後。
 
《終》 
 
あとがき

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