願はくは
 

 明日、娘が裳着を迎える。
 長かった、と頼通は嘆息した。裳着を済ませたら、年内には入内させることが決まっている。ここまで辿り着くのに、どれほどの歳月を要しただろうか。
 彼女は頼通が四十五歳のときに初めて生まれた娘だった。関白左大臣という立場上、入内させるための娘がどうしても必要だった頼通にとっては、待ち焦がれて余りある女子の誕生だった。彼女の無事な成長を頼みの綱として、これまでやってきた。
 実のところ、頼通が「娘」を入内させるのは、今回が二度目である。
 
 ――お養父様。ごめんなさい。
 
 耳の奥に残る、弱々しい囁き。先帝の時代、「関白の娘」として中宮の座にあった女性・嫄子。彼女の今際のきわの台詞が蘇り、頼通は唇を噛み締めた。
 
 ――私、このまま死んでしまうことに、少しだけほっとしているんです。
 
 幼いときから手元に引き取り、養女として、姪として、惜しみない愛情を注いだ。長いこと女子に恵まれなかった頼通のために入内してくれた嫄子だったが、実の娘でないこと、藤原氏の出身でないことが、明るく朗らかだった彼女を苦しめることとなった。
 本来の身分は女王であるという動かし得ない事実。「悲運の皇子」敦康親王の実娘でありながら、「皇后所生の皇子」を追い落とさねばならないという矛盾。真の藤原氏出身の后を望む世間の声――。頼通が課した役割は、ただ「敦康親王の娘」として生きていれば味わわずに済んだ苦悩を背負わせてしまった。そして嫄子は、二人の皇女を残し、ほのかな安堵の表情を浮かべて逝ってしまった。
 嫄子の死から十一年。ようやく実の娘を入内させるときが来た。しかし、その姫の入内にもある懸念があった。
 彼女を生んだのは、「后の母」となるにはあまりに身分が劣る女性だ。一応、頼通の正妻・隆姫に連なる血筋ではあるものの、むしろそれゆえに、隆姫には長くその存在を秘していた。世間から隠して育ててきた娘を入内させることに、躊躇がないわけではない。だが、頼通には他に選択肢がないのだ。
 気づけば、姫の部屋の前に立ち尽くしていた。夜も更けた時刻だったが、御簾の奥には灯がともっている。小さく呼びかけると、女房が出てきて御簾を上げてくれた。
「お父さま。どうしたの?」
 パッと花が咲くように笑いかけてくる我が娘。日陰の存在ではあったが、それゆえに心根がねじけてしまうことのないよう、できる限り大切に育ててきた。その甲斐あってか、天真爛漫で可愛らしい姫君である。それは、親の欲目だけではないだろう。
「明日のことで、何か困ったことはないかと思ってね」
 頼通が微笑むと、姫は幾度か瞬きをした。それから、にっこりと首を振る。
「大丈夫よ。お父さま、明日はよろしくお願いします」
 しずしずと頭を下げる姫。よろしく、というのは腰結役のことだろう。大人ぶってかしこまって見せる彼女がどこかおかしくて、自然と頼通の頬も緩む。
 黒く長い髪。ふっくらとした顔つき。無邪気で素直な彼女は、きっと帝にも愛されよう。だが、上東門院彰子の後見を受ける先々帝皇女・章子や、右大臣教通の娘であり、権大納言公任の娘を母に持つ歓子が後宮に侍っているなか、「隠し子」であった姫に批判的な目を向ける者がいないとも限らない。
 今はまだ、大人の仲間入りをすることに胸を高鳴らせ、夫となる帝との対面を心待ちにしている姫。そんな彼女の瞳の輝きも、厳しい現実に直面することでいつかは曇ってしまうのだろうか。
「姫」
 頼通は、皺だらけの手で、小さく滑らかな娘の手を取った。
「これから、『関白の娘』としての日々が始まる。誰もがそなたに注目する。中には、つまらぬことを噂する輩もいよう。だが、私はずっと、そなたの味方だ。――それだけは、忘れてはいけないよ」
「はい!」
 姫は笑顔のままだった。おそらく、頼通の真意を察してはいまい。だが、それで良いのだ。頼通は、祈るように瞼を閉じる。
 望みは、幾らでもある。皇嗣となり得る男皇子を産むこと。そのために入内させるのだから、当たり前だ。
 それでいて、長生きすること。可愛い娘を見送ることなど、一度きりで充分だ。
 高貴な出自でありながらも、養女であり女王という立場に苦しめられた嫄子。一方で、頼通の実娘とはいえ、卑母の所生であるという事実は、この先、どれほど彼女につきまとうことになるだろうか。
 ただでさえ、後宮での生活は気苦労が多かろう。父親として、関白として、できる限りのことはしてやるつもりだ。それでも、どうにもならないことは多い。
 ――だから、もしも一つだけ叶うならば。
 どうか、心健やかに。この先訪れる、どんな困難にも、彼女が歪められることのないように。幸せでありますように。
 握り締めた両手に、ぐっと力を込める。目を閉じているため、姫の表情は分からない。もしかしたら、普段とは違う頼通の様子を不審に思っているかも知れない。それでも彼は、しばらくその姿勢を崩すことができなかった。
 
《終》 あとがき

 

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