先考を悼む
 

 京極院に帰還した親仁は、どこか疲れた顔をしていた。出迎えた近侍の者たちとふたことみこと言葉を交わし、すぐに寝殿に向かう。
「東宮様」
 ためらいがちな女房の呼びかけに、親仁はゆっくりと振り返る。
「一品宮様が、お目通りを願っていらっしゃるとのことですが……」
 親仁の眉が僅かに寄せられた。だがそれは一瞬のことで、すぐに困ったように微笑みを浮かべる。
「……申し訳ないけど、今は遠慮して貰って」
「承知しました」
 そして女房は、章子が住まう対の屋の方に戻っていく。別の女房が、燈台に灯をともそうとするのを、親仁は押しとどめた。
「そのままでいいよ。……しばらく、一人にして欲しい」
 気遣わしげな顔をする女房たちだったが、誰一人として異論を挟む者はいなかった。皆、静かに退室していく。他人の気配が完全に消えた居室で、親仁は大きく息を吐き出した。
 
 年が改まり、十日が経った。親仁は先ほどまで、昨年から体調を崩していた父帝の見舞いに参じていた。病床での父の様子を思い出し、唇を噛み締める。心臓が早鐘を打ち、無意識に胸元を握り締めた。
 薄暗い室内は、ひんやりと凍るようだったが、不思議と親仁は寒いとは感じなかった。ゆっくりと歩みを進め、御帳台に近づく。すると、簀子からせわしない足音が聞こえてきた。
「東宮様、申し訳ございません。――一品宮様が、お越しです」
 先ほど追い払った女房の声だった。どういうことだろうと親仁は訝しむ。彼女の来訪は断ったはずなのに、何か行き違いでもあったのだろうか。
 また、出直して貰おうか。そんな考えが脳裏をかすめたが、実行はしなかった。章子から会いたいと言ってくるのは珍しい。それだけ、帝――彼女にとっては叔父に当たる――の容態が心配なのかも知れない。
「分かった。通していいよ」
 御簾が上げられ、室内に光が射し込む。思わず、親仁は目を逸らした。
「失礼致します」
 静かに入室してくる章子の表情は、逆光のためあまり見えない。装束の裾が完全に室内に入った段階で、御簾が再び下ろされる。灯一つないこの部屋は、対面の場としては不自然だったが、親仁はあえてそのままにしていた。章子も何も言わない。
「……どうしたの、一品宮」
 腰を下ろし、取り繕うような笑顔で応じる親仁。頬が引きつるのを感じたが、この暗さではそこまでは分からないであろうことに安堵する。
「……お側にいて差し上げた方が、宜しいかと思いまして」
 返された言葉は意外なものだった。親仁の両目が見開かれる。それから、ふっと顔を背ける。
「……悪いけれど」
 立ち上がり、章子に背を向けた。か細い声で続ける。
「そういうことなら、今日のところは帰ってくれないかな」
「東宮様」
「せっかく来てくれたのに、ごめんね」
 ゆっくりと、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。それから、親仁は御帳台の中に滑り込んだ。途端に力が抜け、畳の上にへたり込む。
 それからしばらく、章子の気配は動かなかった。帰らないのだろうか、と顔を伏せたままの親仁は思う。ややあって、身動きするような衣ずれの音がする。ホッとしたのもつかの間、かたん、と物音がして、親仁は弾かれたように身体を震わせた。
 どうして今日に限って、と親仁は苦い顔をした。それから、吐き捨てるように、声を絞り出した。
「一品宮。――お願いだから、帰ってくれ」
「どうしてですか」
 章子の声は平淡だった。それが、余計に親仁の神経を尖らせる。せめて、もっと心配そうな声色で訊いてくれたら、気を遣ってくれているのだからと割り切れるのに。
 じわりと涙が滲んだ。ただでさえ動揺しているのに、思い通りにならない悔しさが手伝って、余計に涙腺が緩む。頼むから、これ以上刺激しないで欲しい。
 こんなところ、彼女にだけは、見せるわけにはいかなかった。
 先ほど相まみえた父帝は、目に見えてやつれ果てていた。たびたび病を得ていたとはいえ、元来はあんなに快活だった父に、明らかに死の影が忍び寄っている。それを、否応なく突きつけられた。
 食いしばった口の端から、嗚咽が漏れる。こらえようとしたが、止まらなかった。涙がぽろぽろこぼれてくるのを、どう頑張っても抑えられない。
 背中に、そっと何かが触れた。ゆっくりと、親仁の背を撫でるか細い手。手のひら越しに、親仁の身体の震えが伝わる。抵抗する気力も失せた彼は、たどたどしい声で呟いた。
「……おかしいよね。二十にもなった大の大人が、こんなふうになるなんて」
 自嘲する親仁だったが、章子の表情は変わらなかった。
「そのように心ないことを、誰が思いましょう」
「一品宮は、しっかりしていたよ。……今の僕なんかよりずっと」
 章子が父母を亡くしたのは、彼女が十一のときだった。正確には、親を喪った直後の章子の様子は知らない。でも、親仁の記憶にある彼女は、自身の感情に溺れるよりも、同じく両親を亡くした妹宮を気遣う、気丈な少女だった。
「……あの頃は、分別のない子どもでしたから。より長く、傍近くで過ごされてきた東宮様の方が、お悲しみが大きいのは道理でしょう」
 章子の手は、親仁の背に添えられたままだ。
「まして、東宮様のお立場では、背負われているものの大きさが異なります」
 ぴくりと親仁が反応した。流れる涙を拭い、呼吸を繰り返す。それから、重苦しい声を吐き出した。
「――譲位を」
 紡がれた言葉に、章子の目が見開かれた。
「譲位したい、との仰せがあった」
「そうですか……」
 章子は目を伏せ、そして瞼を閉じた。重篤な病悩のなかでの譲位の意向。それが何を意味するのかは明白だ。
 帝は、既に自らの死を覚悟している。
「いつかはこの日が来るとは、思っていたよ。でもまさか、こんな気持ちで迎えることになるなんて……」
 唇を震わせる親仁。章子は張り詰めた表情をしていた。眉尻を下げ、親仁の背中を見つめている。
 父を喪うかも知れないという恐怖と、不意に目の前に現れた帝位の重圧。予期せぬ事態に親仁の心は酷く乱れていた。
「……わたくしのお父様が、亡くなられたとき」
 章子の呟きに、親仁の意識が引き戻された。顔を上げ、視線だけで章子を振り返る。彼女はそのまま、彼の背に向かって、ぽつり、ぽつりと語りかけた。
「清涼殿では連日、読経や祈祷が行なわれていて。藤壺にいてもその声がよく聞こえましたから、毎日不安だったのを覚えております」
 親仁は、つい先ほどまでいた内裏の様子を思い出した。あの物々しい有様は、少女の記憶に深く刻まれたに違いない。
「あの日は、お母様もお祖母様も、お父様のお側に控えていらして。わたくしは一人、藤壺におりました。清涼殿の様子が気になって眠れないでいたら、祈祷の声が、ひときわ大きくなって――どうしたのだろうと耳を澄ませていたら、しばらくしたらそれも止んでしまって」
「……」
 章子の声色は感情に乏しかったが、それは当時の彼女の心境そのままではないだろう。幼い章子は、それで父帝の崩御を察したのだ。
「お父様は、正式に譲位をされることなく、この世を去られました。このたびのことは、今生に憂いを残さぬようにという、主上のご叡慮なのでしょう」
「そう……だね」
 親仁はかすれた声で返す。それは、親仁にとって何の慰めにもならないけれど。
 それからの章子は無言だった。親仁からも話しかけない。お互いに唇を引き結んだまま、ただ、静寂が室内を包んでいた。
 また、涙が滲んできた。親仁はもう、その感覚に抗うことをせず、受け入れることにする。時折、しゃくり上げる音が響いた。
 親仁は章子に背を向けたまま座している。章子は親仁の背に手を添えたまま、しかしそれ以上近づくことはしなかった。
 譲位の儀が執り行われたのは、その六日後のことであった。
 
《終》 あとがき

 

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