誰をあはれと思ふらむ
 
「……女御は今、小野にいるのでしょう。立后の儀のために呼び戻して……それまで私の身は保たないよ」
「立派な儀式などは、結構にございます。ただ、娘を后に立てて頂ける、それだけで――」
 教通は伏したままその姿勢を崩さない。後冷泉の命が尽きる前にことを推し進めるためなら、多少の無理も構わないとでも取れそうな台詞だったが、後冷泉に不思議と怒りはなかった。
「一人、皇子を産み奉るという栄誉に浴しながらも、他のお后方に遠慮し、わびしい里住まいを余儀なくされている我が娘を哀れと思し召しなら、どうか」
 その言葉は、後冷泉の胸をちくりと刺した。
 歓子は後冷泉の二人目の妃であった。入内してまもなく懐妊したときは、将来の国母とも目されていた。彼女が産んだ皇子が生き延びていれば、それは現実のものとなったであろう。
 頼通の娘・寛子が入内したのはそののちのことであり、彼女はそのまま皇后となった。後冷泉の三人の后妃のうち、一人下がった立場にとどまらざるを得なかった歓子に、心残りがないといえば嘘になる。まして、実の父親である教通はなおさら胸が痛むだろう。
 だが、真に哀れなのは誰だろうか。后がねとなる娘を何人も得ながら、その娘たちを立后させること叶わず、今もこうして女房たちに冷たい視線を注がれている教通か。いや、長く関白の地位にありながら、入内させるに相応しい娘になかなか恵まれず、孫皇子を得られぬまま致仕するに至った頼通かも知れない。そんな頼通の期待を背負って華々しく入内しながらも皇子を宿せなかった寛子はどうだろう。男皇子に恵まれなかった先々帝の皇女であり、後冷泉の東宮時代から誰よりも傍近く侍りながら、子を残すことを果たせなかった章子も、哀れと見るひとはいるだろう。それとも、皇統に血を繋ぐに足る男皇子を得られなかった後冷泉自身こそが、最も哀れまれる対象ではないだろうか。
 自嘲じみた考えに行き当たり、後冷泉は今度こそ溜息をついた。そうはいうものの、彼はいま思い浮かべた人たちに対し、心苦しく思うことはあれど、可哀想な人だとは思っていない。……気の毒に思う点はあっても、それが全てではない。
 とりとめのない考えが、浮かんでは消える。しばらくの間、沈黙がその場を支配し、後冷泉の荒い呼吸音だけが響いていた。そして、彼は心を決めた。
「――分かった。女御の立后を……認めよう」
 パッと教通が顔を上げる。隠せない喜色を頬に上らせる彼に、ただし、と後冷泉は苦しげに続けた。
「女御に与えるのは、皇后の座だ。今の皇后は中宮に、中宮は皇太后に。……それでもいいならば」
 今いる后妃たちの序列を崩さないこと。それが後冷泉の示した条件だった。当代の帝の正妃が皇太后になるのはあり得ないことだが、皇后・中宮よりも尊位であるということで章子には目をつぶって貰おう。……どうせ、もうまもなく本来の意味での皇太后になるのだから。
「ありがたき幸せに、存知奉ります……!」
 感極まった教通は、声を絞り出して平伏する。その様子を眺めながら、これでいいのだ、と後冷泉は胸中で呟いた。
 前代未聞の三后並立。批判の声も上がるだろうが、少なくとも教通の悲願は叶えてやれる。既に俗世とは遠いところにいる歓子がこれを喜んでくれるかは分からない。だが、実の父からすら哀れまれている彼女の境遇に、ひとさじの華を添えてやることはできる。
 頼通や寛子は、この決定を恨むかも知れない。だが、教通が娘の立后を切望してきたことを、それを阻んできた張本人である頼通が承知していないはずがない。関白職を譲った時点で、ある程度の覚悟はしていよう。寛子を歓子の風下に置くことはしないのだから、きっと二人とも許してくれる。寛子の屈託のない笑顔を思う。
 何を優柔不断なことを、と章子は呆れるだろうか。だが、後冷泉が三人の后妃たちを、誰を一番とはなしにそれぞれ扱うさまを、彼女はずっと見てきたのだ。自分以外が寵愛を受けるのを気にも留めていなかった彼女なら、分かってくれるに違いない。これが、彼のやり方なのだと。
 そして、後冷泉はあの日の父を思う。後朱雀は、最後まで生子の立后を認めなかった。その真意がどこにあるのか、彼は知らない。それと同じように、後冷泉が何を思って歓子の立后を許したのかも、誰一人として知ることはないのだろう。
 女房たちの助けを借りながら、後冷泉はゆっくりと上体を起こした。そうと決まれば、彼には最後にやるべき仕事がある。――立后の諸事を、定めさせなくては。
 後冷泉が崩御したのは、歓子の立后から二日後の、治暦四年四月十九日のことであった。
 
《終》 あとがき

 

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