喪失の果てに
 
虚空津日高はゆっくりと唇を開く。
「……約束なんて……気にする余裕はなかったんだ……」
玉依毘売以上に強く握り締めた拳が、小刻みに震え出す。そのせいで、ぽたぽたと身体や衣服に付着していた雫が落ちてくる。
「産屋も出来上がらない内に産気付いて……そのまま籠もったはいいものの、今度は中々出て来ない。呼んでも反応はないし、大丈夫なのかと、ただ心配で……」
その言葉に、玉依毘売は僅かに表情を和ませた。すぐに先ほどの、張り詰めたものに戻ってしまうが。
「それでも……虚空津日高様は、姉様を見て逃げ出したのでしょう? その姿を、恐れたのでしょう……?」
真実を知らなかった虚空津日高が、豊玉毘売の正体を見て冷静でいることなど、不可能に等しい。しかし、そんな理屈は通用しないのだ。
永久に消えはしない。虚空津日高の罪も、豊玉毘売の心の傷も。
そのまま黙り込んでしまった虚空津日高に、玉依毘売は一枚の紙を差し出した。目を瞬かせる彼に説明する。
「姉様から、預かったものです。虚空津日高様に宛てた」
虚空津日高は、おずおずとそれを受け取った。壊れ物を扱うかのように、慎重に文を開く。
歌が、一首書かれていた。
「……赤玉は……」
――赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり
愛する妻が贈った歌を、虚空津日高は丁寧に繰り返す。その囁きはすぐに風にさらわれてしまったが。
――君が装し貴くありけり
豊玉毘売は、何を思ってこの歌を詠んだのだろう。
夫に鮫の化身であることを見知られ、その姿をさらけ出してしまった彼女は、どんな気持ちで虚空津日高の姿を「貴い」と歌ったのか――。
「――かを」
上手く声にならなかった。もう一度、言葉を発する。
「返歌を、届けて欲しい。……頼んでいいかな、玉依毘売」
その台詞に、ようやく玉依毘売は喜色を含む微笑を浮かべた。頷くと同時に口を開く。
「――虚空津日高様。私は、もう一つ姉様に頼まれたことがあるんです」
何のことだろうかと怪訝そうな顔をする虚空津日高に、真摯な顔でこう言った。 <br">「虚空津日高様と、姉様の間に生まれし御子――鵜草葺不合(うがやふきあえず)様を、養育せよと」
 
沖つ鳥 鴨著(ど)く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに
虚空津日高は、ただこれだけを文に書き付けた。例え正体は鮫だとしても、自分の気持ちは変わらない――そう、心情を込めた。そのことを分かってくれれば、いい。
「……本当は、直接逢ってこの口で言いたかった」
寂しそうに微笑する虚空津日高に、玉依毘売は唇を噛み締める。彼女の気持ちも同じだった。
もし、彼がもっと早くそのことを伝えていれば――豊玉毘売が、海原へ帰る前に。もう、今更何を言っても遅すぎるのだ。
豊玉毘売からの、返事はなかった。どこかでそれを予感していた虚空津日高は、玉依毘売からのその知らせに一つ頷いた。
「……姉様、泣いていました」
どうしてとは言わない。一言では言い表せないからだ。嬉しくて。哀しくて。――悔しくて。
虚空津日高は、玉依毘売の腕の中の息子を見た。母を知らないこの子は、今はすやすやと眠っている。
成長したら、息子は自分を何と言うだろう。妻の本性を受け入れることが出来ず、逃げ出した父を。それを考えると、辛い。
願わくは、彼は自分と同じ過ちを犯さぬよう。そう痛切に祈らずにはいられない。
瞼裏に、遠き日の豊玉毘売の微笑みが甦った。
 

《終》 あとがき

 

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