雨止むその後
 
 すとん、と何かが落ちたような気がした。櫛名田比売は優しく、須佐之男の手を包み込む。
「!」
 須佐之男は弾かれたように身を引いた。先ほどとは正反対の状況に、櫛名田比売は小さく笑う。
「――お寂しかったの、ですね」
 いや、寂しいと感じたことすらなかったのだろうか。満ち足りた時を知らなければ、そう気付くことなど出来ない。母の情愛を知らずに育ち、父や姉とは相容れず。
 櫛名田比売は、あの感情の見えない瞳を思い出した。思えばあれも、その表れだったのだろう。言いようのない苛立ちを抱え、しかしそれを上手く発散する方法など知らず、心を殺すしかなくて。ついには高天原で爆発させた。
 もう、彼のことは怖くなかった。大丈夫、この人は悪じゃない。不器用で、幼い部分を持っているだけ。
「――お前たちに会った時、驚いた。家族皆で泣いていて、気持ちを共有していて。他の家族は喰われてしまって、哀れだったが――それ以上に羨ましかった。嘆いてくれる家族がいることに。共に泣ける人がいることに」
 もし自分が遠呂智に喰われたら、果たして嘆いてくれる人はいるのだろうか。それすら即答出来ない自分の境遇に、初めて気付いた。
 櫛名田比売は頷いた。須佐之男は彼女を妻にしたかったのではない。
 ただ、共に生きる家族が欲しかっただけなのだ。
「――もう、大丈夫。あなたは一人じゃない。……勘違いしてごめんなさい」
 櫛名田比売はこの時ばかりは敬語を使うのを止めた。天津神を、伊邪那岐の息子を相手とするのではなく――須佐之男を、対等な立場で見ていることを表すために。
 暖かい手を、須佐之男はおずおずと握り返した。戸惑うように顔を上げ――ぎこちなく微笑んだ。
 それは、須佐之男の初めての笑顔だった。
 
 * * *
 
 風が、通り過ぎた。
 須佐之男は眩しそうに目を細め、手をかざした。そのままずっと動かないので、櫛名田比売は不思議そうに問いかける。
「……須佐之男様?」
 彼はしばらく静止していたが、やがてその手を下ろすと、小さく呟いた。
「――ああ」
 僅かに頬を紅潮させ、櫛名田比売を振り向く。
「……これが、『清々しい』という感覚か?」
 その様子が、まるで宝物を発見した幼子のようで。知らず知らずのうちに、櫛名田比売の口元には笑みが広がっていた。
 頷く代わりに、後ろからぎゅっと抱き締める。予想外の行動に須佐之男は、軽く戸惑ったようだった。しかし、振り払うことはしない。心地よい温もりに身をゆだね、再び空を眺める。
 きっと、今からでも遅くはない。彼が幼き頃には手に入れられなかったものは、これから掴み取っていけば良い。――櫛名田比売と共に。
 彼女は須佐之男に回した腕を放すと、同じように空を見上げた。
 八雲立つ出雲の空の、雲の切れ間からは優しい光が差し出ていた。
 

《終》 あとがき

 

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