州羽社由緒記
 
「……着替えをご用意しますので、先にお部屋に。あと、せめてお食事だけでも……」
「ありがとう。そうさせて貰う」
 いつもの快活な笑顔ではなく、落ち着いた微笑だった。ぱたぱたと自室に向かう八坂を静かに見送る。
 畳んであった建御名方の装束に手を伸ばしかけ、自身が濡れ鼠なことを思い出した。手早く身なりを整え、両腕に荷物を抱え込む。建御名方の居室に入ると、手ぬぐいで身体を拭いているところだった。
「代わりのお衣装です。あと……出雲への旅路は長いでしょうから、途上のお着替えも」
「そんなに縫っていてくれたのか?」
 目を丸くする建御名方に、おずおずと頷いた。本当はもっと長い滞在になると踏んでいたから。
「あと、身につけられていた装飾の類いもこちらに」
「ああ、そういえば忘れてた」
 着替えを済ませた建御名方は、勾玉のついた組紐を手に取った。元々彼の髪を結わえていたものだ。ちらりと八坂に視線を送る。
「……お結いしましょうか」
「頼む」
 素直に頭を下げ、腰かける青年の背に、八坂はくすりと笑う。飾り気のない紐をほどき、櫛を入れる。湿り気を帯びた髪だった。
 丁寧に髪を梳かしながら、八坂は唇を開いた。
「……先ほどのお衣装ですけれど、今お持ち頂いてもお荷物になってしまいますよね」
「うん?」
「ですから、私、お預かりしておこうと思います。決着がつきましたら、申し訳ないのですけれど、受け取りにいらして下さいますか?」
「……分かった。確かにその方がいいかもな」
 建御名方の表情は分からない。それで良かったと思った。
「あと、これは、ただの我が儘なのですが……」
「?」
「出雲にお帰りになる前に、州羽の海をお見せしたいのです。できたら、晴れた日に。……ご一緒して頂けますか?」
 答えは返らない。八坂はごくりと息を呑み込んだ。たちまち後悔が彼女を襲う。
「……建御名方様」
「いや……我が儘っていうから何かと思ったら、そんなことか。むしろこっちがお願いするよ!」
 そうだ、と彼は続ける。
「比売は、高志には行ったことあるか?」
「? いいえ……」
「なら、俺はお返しに高志に連れて行ってやるよ! どこまでも広がる荒々しい海原を見せてやる!」
 底抜けに明るい台詞に、八坂は泣きそうになった。はい、是非、とか細い声で応じた。
「……できました」
 建御名方が鏡を覗く。綺麗に結い上げられた髪を確認し、満足そうに頷いた。耳飾りや腕輪を嵌めていき、最後に豪奢な首飾りを手に取った。
「これは比売にやるよ」
「えっ?」
「今までのお礼だ。高志の結構上等な翡翠だから、そのまま使ってくれてもいいし、ばらして作り替えてもいいし、売ればそれなりの額になるだろ」
「そ、そんな大事なもの、受け取れません……!」
「いいって。せめてもの気持ちだから」
「でも――」
 頑なに受け取ろうとしない八坂に、建御名方はふっと目元を和ませた。
「じゃあ、次に会うときまで預かっていてくれ。どうしても嫌ならそのとき突っ返してくれればいい。……もし俺が受け取りに来なかった場合は、申し訳ないけど、いつでもいいから母上――高志の沼河比売の元に送り届けて欲しい」
 はっと八坂は顔を強張らせる。建御名方の顔つきはやけに穏やかで、だからこそそれ以上拒むことはできなかった。
「……分かり、ました」
 じゃらん、と音を立て、首飾りが八坂の手に渡った。ずっしりとした重みが手のひらに食い込む。
 それから、簡素な食事が始まった。彼らが食事を共にするのは、実はこれが初めてだった。建御名方の食事の際、八坂はいつも介添えをしていたためだ。
 真正面でもぐもぐと口を動かす建御名方をちらりと見やる。身支度を整え装飾を身につけた彼は、確かに出雲神の子息らしい風格があった。きっと、此度のことがなければ一生関わることはなどなかったであろうほどに。
 彼に恭順を勧める気はない。彼を納得させられるとは思えなかったし、いつかのような口論になるのはごめんだった。これが最後ならばなおさらだ。
 ――元より、先ほどの願いが聞き届けられるとは思っていなかった。ただ、すがりつける希望が、心の拠り所が欲しかっただけ。建御名方はその気持ちに、優しい嘘で応えてくれたのだろうか。ひっそりと本音を滲ませながら。
 目が潤みそうになり、慌ててこらえた。建御名方が明るく振る舞っているのに、不吉な涙で場の空気を悪くしてはならない。
 建御名方が箸を置いた。傍らに置いてあった太刀を握り締め、顔を上げる。
「ご馳走さま。……じゃあ、そろそろ」
「……お見送り致します」
 ふらりと立ち上がり、建御名方の後ろに続く。軒先に出て身体ごと向き直った彼に、八坂は深く、深く頭を垂れる。
「建御名方神の命に、弥栄なる富が訪れますよう――」
 建御名方はくしゃりと笑った。一つ頷き、踵を返す。雨の中に消えていく背中を、八坂はいつまでも見つめていた。その影すらもとうに見出せなくなった頃、小さな呟きが唇からこぼれ落ちる。
「……どうか、ご無事で」
 こんなときですら「ご武運」とは言えない自分を苦々しく思った。
 

《次》

 

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