州羽社由緒記
 
「……あの、どうして急にそんな?」
「ん?」
「……えっと、建御名方様にその、特別な感情を持って頂けるとは思ってなかったので、びっくりして」
 するりと建御名方の腕がほどけた。心底不思議そうな顔をしている。
「比売は俺にとって特別だぞ? 何といっても、俺が今こうしていられるのは比売のおかげだ」
「そういう意味ではなく……その、妃に望まれることなど、思ってもみなかったことですから」
 ぱちぱちと何度も目を瞬かせる建御名方。八坂の言わんとする所が上手く呑み込めていないらしい。
「俺、比売のこと好きだよ?」
「だって、今までそんなそぶりなんて」
「そりゃあ、俺だって気づいたのついさっきだし。それからすぐ妻問いしに来たんだから、当たり前だろ」
 八坂は絶句した。その態度に、建御名方は別のことを思ったようだった。
「比売は、俺が相手じゃ嫌?」
「そんなこと……う、嬉しいです。とても」
 私はずっと、貴方のことが好きだったんです。とまでは続けられなかった。照れくさそうに視線を落とす八坂に、建御名方は柔和に微笑んだ。
「そっか。なら良かった」
 満足そうに抱きかかえられる。今度の手つきは優しかった。ふわりと八坂を持ち上げたまま立ち上がり、部屋を出る。腕の中で八坂が訝しんでいるうちに、そっとどこかに下ろされた。八坂にとっては見慣れた場所――自身の寝所だった。
「え、あの、建御名方、様?」
 のしかかるようにして体重をかけてくる建御名方。咄嗟に両手で押し退けると、建御名方はきょとんとした。
「あ、重かった?」
「そそ、そういうわけではなく……」
 建御名方のごつごつした手が頬に触れてきた。反射的に目をつぶると、ぐっと上を向かされる。瞬間、唇を何かに塞がれた。数拍置いて建御名方の顔が離れる。
「あ……」
 意図せずこぼれた吐息に、建御名方の表情が緩んだ。太い指が愛しげに八坂の唇を撫でる。
「ちょ、待って――やめて下さい!」
「え」
 戸惑いの隙を突いて建御名方の拘束から逃れる。明確な拒否を受けた彼は目を丸くしていた。しかし、こちらとて黙って流されるわけにはいかない。
「……駄目?」
「駄目です! そんな、心の準備がまだ……!」
 真っ赤になって首を振る八坂に、建御名方は眉尻を下げた。
「比売、俺のこと好きじゃない?」
「それとこれとは別です!」
「そうか? 俺は好きな相手に触れたいなって思うし、触れられたら嬉しいけど」
「っ」
 率直な返しに動揺する。ぐい、と手を握られ、褥に押し倒された。両手を押さえつけられた状態で今度は額に優しく口づけされる。至近距離で視線が絡み合い、じっと見つめられたが、八坂は反対にぎゅっと目を閉じた。ふるふると、力なく首を横に振る。目尻には涙が滲んでいた。
 不意に拘束が解かれた。建御名方の身体が離れる。
「ごめん、急ぎすぎた。そうだよな、初日は何もせずに帰るものだよな」
 妙に納得したように呟く。……明日なら大丈夫とかそういう問題でもないのだが、ぐったりしてしまって何も返せなかった。展開が早すぎてついて行けない。
「……俺、もう帰った方がいい?」
 気遣わしげな問いかけに、しばらく置いて、八坂はゆっくりと首を振った。一緒にいたいのは八坂も同じだ。
「添い寝だけとかも駄目?」
「~~~、私の心臓が保ちません……」
「じゃあ、もっと口づけ――」
「だっ、駄目です! もう夜も遅いんですから、休んで下さい!」
「……せめて、寝る前にぎゅっとしたいんだけど?」
 上目遣いでこちらを窺ってくる建御名方。哀願するような瞳で見つめられたら、もう否ということはできなかった。
「……優しくなら、いいですよ……」
 はにかみながら返す八坂に、建御名方はにかっと笑った。即座に背中に腕が回ってくる。へへ、と満足そうな笑みをこぼす建御名方に、何て幸せそうな顔をしているんだろう、とぼんやり思う。そっと彼の背に手を回すと、それに気づいた建御名方の腕にほんの少しだけ力が加わった。
 
 建御名方にはもう眠れと言いつつ、自分は全然眠れないままに夜明けを迎えることとなってしまった。半分くらいは予想していたことだったので、小鳥のさえずりが聞こえてきた時点で諦めて寝所を出ることにした。酷い顔をしていないといいのだが。
 しばらくするとのそのそと建御名方も起きてきた。こっちはぐっすり眠れたらしく、八坂の姿に気づくとにこにこと笑顔を向けてくる。
「おはよ。雪も止んだみたいだし、俺一旦帰るな」
「分かりました――あ」
 途中で言葉を切った八坂に、建御名方は「ん?」と首を傾げる。
「あ、あの。途中までご一緒しても、いいですか? ……州羽の海を見たいんです」
 おずおずと見上げてくる八坂に、建御名方は「もちろん」と頷く。
 社から出ると、建御名方は当然のように八坂の左手を取った。そのまま並んで歩き始める。雪道は歩みを進めるごとに、さくさくと小気味良い音を立てた。
 やがて見えてきた湖面に、八坂は違和感を覚える。近づくごとにそれは大きくなり、湖畔に辿り着いたときには彼女は呆気にとられていた。
「どうして、こんな……?」
 凍てついた水面が一面に広がっている。いつもの州羽の冬の光景である。問題なのは、その湖面を切り裂くかのように、氷が大きくせり上がっていることだった。
「……あっ!」
 八坂と同じように呆けた顔をしていた建御名方は、次の瞬間声を上げた。ひょっとして、と八坂に顔を向ける。
「あのさ、昨晩俺、湖を横切って比売の社に向かったんだよ」
「えっ?」
「だってさ、陸地を歩いて行くより早いじゃんか! 一刻も早く会いたかったから、氷の上を駆け足で。そういや、あのとき何かが割れる音がしたような気がしなくも……」
 頭を掻きながら記憶を辿る建御名方。うわあ、まずいことをしたかな、と心底困った顔をする彼を見つめていたら、自然と笑みがこぼれてきた。
「……もしかしたら、湖の底に住まう父が、寝入りばなを起こされたと怒っているかも知れませんね」
 え、と焦りの表情を向けられ、ふふ、と含み笑いを返した。さすがに妻問いに向かう途中を未来の舅に知られていたとなると穏やかではいられないらしい。
「……どっちにしても挨拶に行かなきゃだし、そのとき確認してみよう」
 本気で心配しているらしい建御名方に、八坂はくすくすと笑った。彼女の左手は、変わらず建御名方の右手と繋がれたままだった。
 

《終》 あとがき

 

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