宮中奮闘記 ―員外二―
 
 筑紫はといえば、そんな二人の様子を真顔で眺めているだけだ。別に今さらどうってことはない。主人たちが睦み合っている場面に居合わせるなんて日常茶飯事だし、行隆が元服してから数年の間は、彼が邸内の女房の局に忍んで行ったり、自身の寝所に引き入れたりといったさまを目撃したこともある。多感な時期にそんな経験をしたことに比べれば、目の前で正妻と戯れるくらい微笑ましいの範疇である。
「大体、この邸には上がいらっしゃるのですから、他の女人の入る隙間などあるはずがないでしょう?」
(そういうお相手はとうの昔に一掃しましたしね)
 皮肉が表情に出ないように注意しながら、内心で筑紫は呟いた。二年前、華姫が妻としてこの邸に迎え入れられたときのことである。彼女が実家から多くの女房を引き連れてくることを建前に、当時仕えていた女房を嗜みのある者とそうでない者に選別して、人員整理をしたのだ。行隆が一度でも召したことのある女房はそのときに去っている。中には優秀な人材も混ざっていたため、筑紫はその処置に大反対したのだが、行隆は頑として方針を曲げなかった。
 筑紫にしてみれば、前弾正尹宮(さきのだんじょういんのみや)の娘という高貴の生まれで、なおかつ今上帝の臣籍に下りた皇子である行隆の正妻という立場の姫君が、たかが女房との火遊びごときを気にすることなどあるまいと訝っていたのだが、残念ながら行隆の配慮は大正解だったらしい。
「……北の方様のお心を乱すような振る舞いをしたのは、私が軽率でした。反省しております」
 渋々ながらもそう切り出す。まあ、こうして現場を押さえられてしまったからには、筑紫にも非がある。しかし、次の瞬間、筑紫は苦々しげな表情で訴えた。
「とはいえ、北の方様も少しは慎んで下さいませ。左近少将様の北の方ともあろう姫君が、女房相手にあらぬ疑いをかけ、あからさまに嫉妬心を剥き出しにされるなんて、余所の者に知られたら大恥ですよ。これは北の方様個人の問題ではなく、殿を含めた邸内の者たちや、前弾正尹宮様の醜聞ともなるのですから」
 筑紫の厳しい口調に、華姫はびくりと肩を震わせた。そんな妻を行隆は優しく抱き寄せる。
「まあまあ。邸内のことを触れ回るような不調法者がいないかは、筑紫がしっかり目を光らせているのですし」
「殿は黙っていて下さい」
 きっと筑紫は行隆に厳しい眼差しを向ける。それから、しまったと胸中で歯噛みした。こういう気の置けない態度が、華姫を煽る一因でもあるのだ。思った通り、先ほどの怯えはどこへやら、華姫は面白くなさそうな顔をしている。
 同じく華姫の表情に気づいた行隆は、筑紫に目線で合図を寄越した。華姫を抱きかかえ、そのまま立ち上がる。
「では筑紫、申し訳ありませんが、私は上とお話があるので。例の件は、また後日」
「例の件って何ですの!?」
「さ、上。参りましょうか」
 華姫の問いかけには答えず、行隆は彼女を連れて部屋の奥に向かい、そのまま御帳台の中に消えた。華姫はしばらく何やら言い募っているようだったが、行隆が宥めるように何事かを発したのち、大人しくなったようだった。ぼそぼそと会話が続いている様子はあるが、その内容までは分からない。
 筑紫は立ち上がり、散らかったままの文机の整理を始めた。仕事関係の書き物だったようで、中断させてしまったことを少しばかり申し訳なく思う。まあ、行隆のことだから、業務に差し障りをきたすような真似はしないだろう。
 どうせこの流れなら、主人たちは朝まで籠もりっぱなしだ。二人分の寝間着やその他必要になりそうなものを用意し、御帳台の近くに分かり易いよう置いておく。そのとき、か細い涙声が筑紫の耳に届いた。
「だって、筑紫は殿のこと、なんでも知っているもの。わたくしには殿のお考えが全然分からないのに……」
「そのようなこと、お気に病まれる必要はありませんよ。分からないなら、いつでも聞いて下されば良いのですから」
 甘い囁きが華姫のすすり泣きに被さる。睦言はまだまだ続くようだったので、筑紫は気配を殺してその場を離れた。片づけを済ませた彼女は、仕上げに明かりを最小限にし、自身は几帳の影に腰を下ろして一息つく。今宵はこのまま宿直である。
 やがて空が白み始めた頃。そろそろ自分の局に戻ろうと、筑紫が起き上がって身支度をしていたら、衣ずれの音が聞こえた。几帳から顔を覗かせると、真っ白な寝間着に身を包んだ行隆が御帳台から出てきたところだった。昨夜筑紫が脇に寄せた文机をちらりと確認し、それから彼女が自分を見ていることに気づくと、小さく頷いた。
(何か、ご用事でも?)
 声を出すことを憚り、視線だけで問いかけると、行隆はこちらに進み出てきた。内緒話をするように片手を口元に添える。
「これからどちらに?」
「誰かと交代しようかと思いまして……」
「ああ」
 行隆は納得した様子だ。昨夜あんなことがあったのだから、華姫としても朝の仕度の場に筑紫がいるのは気詰まりだろうと判断したのを察したのだ。
「なら、ついでにあちらの女房に伝えて貰えますか? 上はしばらくお休みになるので、お戻りは遅くなりますが心配なきよう、と」
 筑紫は無言で応じた。随分長いこと何かをしている気配は感じていたので、予想の範囲内である。行隆に一礼し、その場を後にする。簀子(すのこ)に出た瞬間、眩しさに目を細めた。いつもと変わらぬ、都の夜明けだった。
 

《終》 あとがき

 

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