慶平霜雪秘聞
 
「ですから、そろそろ朝議のお時間なので……」
「くっそ、どうしても言うこと聞かねえなーこの馬」
「早く綾綺殿に戻りませんと、大騒ぎになりますよ!」
「おい 清如(きよゆき)、ちゃんとこいつに餌やってんのか?」
「は、はい勿論……」
「もう今日は充分楽しまれたことですし」
「全く、いつもはこんなんじゃ」
「いい加減にして下さい!!」
 先ほどまでは相手を宥めようと穏やかだった声が、とうとう堪忍袋の緒が切れたらしく金切り声に変わる。その叫びに、清如と呼ばれていた男は思わずびくりと震えた。
 声の主――源益(みなもとのすすむ)は、性に合わない怒鳴り声を出した反動から、ぜいぜいと肩で息をしている。そしてそのまま、視線の先の少年をねめつける。
 問題の少年はというと、大声が耳障りだったのかつり上がった目を不快そうに歪め、馬をいじっていた手を休めるとようやく益を見た。きっちり冠を着けて正装した益とは真逆で、頭には烏帽子、身にまとうは狩衣に指貫という軽装だ。その装束は初めこそ鮮やかで上等な逸品だったはずが、使い古した今となってはすっかりボロボロのシミだらけ。おまけに袖が長くて邪魔だからと、左右をたすき掛けにしてまとめている。
 そのあまりの出で立ちに、今更ながら溜息がこぼれた。情けなくて涙が出る、と益は肩を落とす。
 ……目の前の人物が、この貴族社会の頂点に君臨する帝その人と言って、一体誰が信じてくれようか。
 
 貞明親王。のちに陽成の呼び名を諡(おくりな)されるこの帝は、貞観十年にこの世に生を受けた。父に清和天皇、母に女御・藤原高子を持つ彼は、外戚の手厚い庇護のもと、生後二か月半という異例の早さで立太子を遂げる。父帝の譲りにより数年前に即位した陽成には、安定した未来が約束されている、はずだった。
(それが、どうしてこうなったのやら……)
 益の母・ 紀全子(きのまたこ)は、貞明親王出生と同時期に益を産んだことから、親王の乳母として抜擢された。つまり、陽成と益は乳兄弟の関係にあたる。益は生まれてからずっと、その縁で陽成の世話役を務めてきたのだが。
「……大体、こんなクソ寒いのによく好きこのんで外なんかにいられますね」
「だったら大人しく戻ってろこの軟弱者」
「できることならとっくにそうしてます。ほら、そんな薄着で……風邪引きますから」
「あいにく、そんなやわじゃねえよ。それよりどうだ、お前もこれに乗ってみるか?」
 ひくりと益の頬が引きつる。無理やり陽成を引きはがそうとした拍子に馬に踏まれた経験のある益は、乗馬するどころか、できれば馬に近づきたくもないというのに。提案する陽成の声にあからさまに気がないのは、それを知っているからだ。
 益の諫言などどこ吹く風で馬に没頭する陽成に、益は仕方なくとっておきの切り札を突きつける。
「全く……皇太后様に報告しますよ?」
 母后の名を出され、陽成の動きが一瞬止まった。だがすぐに益から視線を外すと、聞こえよがしに声を張り上げた。
「おーい正直(まさなお)! ちょっとこの馬走らせてみろ!」
「だから主上(おかみ)いいい!!」
「あの……宜しいので?」
「いいからいいから。どっかの堅物の言うことは気にするな」
「あなたが奔放すぎるんです!」
 頭を抱える益を気の毒そうに見ているのは、小野清如と紀正直の二人だ。彼らは下級官人ではあるものの、共に馬寮の役人であることから陽成の馬の世話を担わされている。双方陽成よりは年上なのだが、身分が身分な上に相手が相当の癇癪持ちであるため、勘気をこうむることを恐れて逆らうことができない。今もまた陽成と益の顔色を窺いながらも、結局は指示通り馬を引き出してきた。
 と、そこに、せわしない衣擦れの音が近づいてきた。ぎくりと益が振り返ると、息を切らせた少女が殿舎の簀子に現れた。てっきり通りがかりの誰かかと危ぶんだ益は、見知った人物の姿に胸をなで下ろす。一旦陽成たちのもとを離れ、そわそわと落ち着かない彼女に近寄った。
「 紀君(きのきみ)、どうしました?」
「あの、それが、そろそろ公卿の方々がお集まりに……」
「げっ」

 安堵したのもつかの間、益は身を翻して駆け出した。もう、馬が苦手とか言っている場合ではない。今にも乗ろうとしている陽成にすがりつき、押しとどめようとする。
「主上、いいから着替えてさっさと還御して下さい! これ以上は無理です!」
「うるさい」
「あーもう、あなたは帝としての自覚がないんですか!?」
「うるさいっ!!」
 バシッという音が辺りにこだまする。振り向きざまに益を押しのけた陽成が、そのまま彼の頬に一撃を食らわせたのだ。不安定な体勢のまま突き飛ばされた益は、抵抗もできずに地面に倒れ込む。もわりと土ぼこりが舞った。
「……自覚ってなんだよ。相国は自宅に引き籠ってばっかで、他の連中も出仕拒否を決め込んで。こんな状況で、俺にどうしろってんだ!」
「ですから、主上がきちんと真面目に政務を執る姿勢を見せれば――」
「どうして俺が妥協しなきゃいけないんだよ!!」
 のろのろと上体を起こす益の前に仁王立ちし、陽成は力いっぱいの罵声を浴びせる。
「どうせ政治を動かすのは相国だろ!? 母上だろ!? 俺がいようがいまいが関係ねえじゃねーか!」
 ぎろりと益を睥睨し、きつく拳を固める。もう一度殴られるかと身体を強ばらせた益だったが、その拳は彼の頭上に振り下ろされることはなく、しばらくしてからゆっくりと緩められた。
「――着替えてくる」
 益から目を逸らし、陽成は乱暴な足取りで階を上っていく。不愉快そうな声音ではあったが、とりあえず陽成からその言葉を引き出せたことに、益はほっとした。ややあって、座り込んだまま傍らの清如たちに頭を下げる。
「…… 右馬少允殿、 権少属殿。いつもすみません、主上が迷惑かけて」
「いえ、そんな……」
「それより、大丈夫ですか?」
 心配そうに駆け寄ってくる正直に、益は乾いた笑みを返した。
「俺は平気ですよ。慣れてますから」
 その返答に、馬寮の二人は顔を見合わせる。なおも不安げな彼らに首を振って見せ、益は退出を促した。誰かに見咎められてはまずいし、彼らだって自身の仕事がある。
 

《次》

 

歴史創作に戻る

inserted by FC2 system