慶平霜雪秘聞
 
 遠ざかっていく一対の背中を眺めながら、益は重苦しい息を吐き出した。陽成の絶叫が、耳の奥で響いている。
 初めは上手くいっていたはずだ。九歳で即位した幼い陽成を、伯父の相国――太政大臣である藤原基経が摂政として補佐する。均衡の取れた理想的な構図。それが、陽成が長ずるごとに狂い始めた。物事を理解し始め、少しずつ明確な意思を持ち出した陽成。大きな発言権を有する母后・高子。政局は軋み始め、基経は辞表を繰り返すようになり、いつしか朝議の出席者もまばらになった。
 益は立ち上がると、衣装に付着した泥を払った。触れると小さな痛みが走る。どこか擦りむいたのかも知れない。顔を上げると、簀子に立ち尽くしたままこちらを見つめる紀君と目が合った。
「……益様」
「まだいたんですね。さっきは連絡助かりました。もう戻っても――」
「いえ、その」
 努めて明るく振る舞う益を遮り、紀君はおずおずと何かを差し出した。
「お怪我を……」
「え? ――うわ」
 手で示された右頬を撫でると、僅かに血が滲んでいた。慌てて懐をまさぐるが、あいにく止血に使えるものは持ち合わせていなかった。仕方ないので、紀君の持っていた布をありがたく頂戴することにする。右頬は地面による擦り傷。左頬は帝自らの平手打ち。鏡を覗けばさぞや酷い顔が拝めるに違いない、と益は嘆息した。清浄を保たねばならないはずの内裏で、血の穢れも何もあったもんじゃない。
「ありがとうございました、紀君」
 あらかた処置を終えた益は、改めて二歳年上の従姉に礼を言う。母方の親戚であり物心ついたときからの付き合いがある少女は、その言葉にようやく穏やかな笑みを浮かべた。が。
「何してんだお前」
 和やかな雰囲気を打ち破るむっつりとした声に、思わず益は固まった。見ると、すっかり着替えを終えた陽成が益を睨みつけていた。どすどすと騒がしい足音を立てて近づいてきたと思ったら、ひったくるように紀君の手首を握り締める。
「行くぞ!」
「え? あ、あの……」
 戸惑いの声を漏らす紀君に構うことなく、陽成は無理やり彼女を引いて綾綺殿に向かった。あからさまな嫉妬に、別に盗りませんよ、と益は独りごちる。昔から仲がいいとはいえ、彼にそのような感情はないし、仮にあったとしても主君の想い人に手を出すほど己の立場を忘れてもいない。……益の母の勧めで宮中に上がった紀君は、陽成の妾となっているのだ。
 足音が遠ざかっていき、周囲には久々の静寂が訪れた。益はそのまま階に腰かけ、頬杖をつく。無意識に傷口に触れてしまい、軽く舌打ちした。
 ……陽成の気持ちも、分からないわけではない。幼い頃からずっと一緒にいるぶん、彼のことは人一倍理解しているつもりだ。室内で大人しく遊ぶよりも、外に出て思いっきり走り回る方が好きな子供だった。そんな彼に、いつも益は振り回されていた。
 ある日、女房の制止を振り切って邸を飛び出した陽成に、益は閉口しつつも進言した。
 ――東宮さまはいずれみかどになられる方だから、軽々しいことはしちゃ駄目って、母上が言ってました。
 ――みかど? みかどってなんだ?
 ――この国でいちばん、えらいお方のことです。東宮さまのお父君のような。
 ――父君みたいな? 嫌だなーそれ。だって、外であそばずにずっと仕事しなきゃならないんだろ?
 ――そ、それは……。
 ――つまんねーなー……。
 それきり黙り込んでしまった陽成に、益は不安を抱いた。唇を尖らせた不満そうな横顔に、今までに見たことのない寂しげな感情が宿った気がして。
 益はしばらく陽成を見つめ、心にある決意をした。陽成の正面に回り込むと、はっきりと宣言する。
 ――……だ、だいじょうぶです。おれが東宮さまをお守りしますから! 一生おそばで、お仕えしますから!
 ――本当か?
 ――はい!
 ――じゃあ、おれがすすむをだいじんにしてやる! みかどはいちばん、えらいんだろ? おれがみかどになって、お前を出世させる! 約束だ!
 呼び覚まされた幼い記憶に、益は懐かしさと共に刺すような痛みを覚えた。無邪気な陽成の笑顔が、瞼裏に蘇る。
 まだ世の中のことが分からない子供だったから言えたことだ。家系を遡れば嵯峨天皇の曾孫に当たるとはいえ、益の父親はぎりぎり五位に引っかかっている程度の官人である。そんな家に生まれた益が大臣になど昇れるはずもない。そもそも、大臣を望めるような家柄なら母親が乳母として出仕しているはずがないではないか。
(まあ、主上はとっくに忘れてるだろうけど……)
 覚えていたところで、益を大臣になどと今の陽成が言うとはとても思えない。それはお互いの立場を理解したからでもあるが、決してそれだけが理由ではない。
 あの頃は、ただ陽成につき従っていれば良かった。強引に遊びに付き合わされ、あとで二人して全子に説教されて。毎回毎回怒られたけど、それでもどこかしら満足感はあった。
 あれは、いつだっただろう。いつになく険しい顔をした全子に呼び出され、ひどく叱責されたのは。
 ――主上が無作法なお振る舞いをなさるのは、乳兄弟たるあなたがしっかりしていないからです。いいこと、益。あなたが主上をお守りするのですよ。
 参内し始め、即位したのちもなお行状が変わらない陽成に業を煮やしたのだろう。全子は息子を叱りつけ、己の役目を再確認させた。それから、益は自由気ままにいることをやめざるを得なくなった。小言しか言わなくなった幼馴染を陽成は疎み始め、お互い十六となった今ではこの有様だ。
(別に、主上が憎くてやっているわけじゃ、ないんだけど)
 むしろ、想っているからこその行動のはずだ。ただそれが、陽成自身の望みとは食い違っているだけで。その気持ちが届かないだけで。
 

《次》

 

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