慶平霜雪秘聞
 
「益様」
 不意に呼びかけられ、益はハッと現実に引き戻された。声のした方向を見ると、先ほどここを去ったはずの人影が視界に入る。
「紀君……どうしたんですか? ――主上は?」
「蔵人頭様がご一緒に。……ここ、いいですか?」
 隣を示され、益は慌てて頷いた。益が場所を空けると、紀君は高欄に手をかけ、横に並んで階に座り込む。それまで宙を泳いでいた髪が、さらりと床に流れた。
「まだこちらにいたんですね」
「はあ……何となく、綾綺殿にも行きづらい気がして」
 主上を怒らせてしまいましたから、と益は苦笑いをする。過去を思い出して感傷にふけっていたことは黙っておいた。
「紀君は八つ当たりされませんでしたか? なんか勘違いされてしまったみたいで……」
「いえ、そんなこと」
「それと」
 ふと思い至り益は、陽成がいないこの機会に、ずっと気になっていたことを尋ねてみる。
「その……紀君は主上に、無体な仕打ちとかされてませんよね? 今日に限らず」
 長く不安に思っていたことだった。今のところ、陽成が益以外に手を上げるような場面には遭遇していないが、益の目の届かないところでは断言できない。もし紀君が人知れず苦しんでいるようだったら、益としても申し訳が立たなかった。
 しかし紀君にとってはその深刻そうな表情が心外だったらしく、年より稚い面差しをきょとんとさせて益を凝視した。
「え、ええ……心当たりはありませんけど」
「本当ですか? 無理しないで下さいよ、何なら母に言って、退出を願い出ても……」
「いえ、だからその」
「嘘じゃないですよね?」
「気にしすぎです」
 心底困惑しているような紀君の瞳をじっと注視し、その色に偽りがないことを読み取ってようやく益は力を抜いた。脱力して床に手をつき、大きく天を振り仰ぐ。
「あー、良かった……」
「……あの」
 緊張を解いた益とは反対に、紀君はきゅっと唇を引き結んで益を見た。
「大丈夫じゃないのは、益様の方では……?」
「え?」
 思わぬ指摘にまじまじと紀君を見つめるが、彼女の表情はどこまでも本気だった。心配そうに見上げてくる彼女に、益はぶんぶんと首を振ってみせる。
「まっ、まさか! これくらい、どうってことないですよ」
 まだ痛む身体をパシッと叩き、にこやかな笑顔を作る。虚勢を張っているつもりはなかった。眉を八の字にしていた紀君は、ふっと下を向く。それから、もう一度顔を上げて益を正面から覗き込んだ。
「それなら、お願いしたいんですけど……どうか、主上を見捨てないでやって下さい」
「はい?」
 またしても想定外の台詞にいよいよ益は混乱した。しかし紀君は真剣だった。
「主上をお支えできるのは、益様しかいません。主上はあの通り、乱暴なこともなさいますけど……それも、益様に対する甘えからだと思うんです」
「そ、そうですか?」
 とてもそうとは思えなかった。大体、見捨てるってなんだろう。あれだけ反発されて、毛嫌いされて、むしろ見限られているのは益の方ではないか。
 納得できずに反論しようと口を開きかけたが、目の前の紀君があまりにも張りつめた顔をしていたため、結局益は何も言うことができなかった。
 

《次》

 

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