慶平霜雪秘聞
 
 陽成が遠駆けをしたがっている、と耳打ちされたのは、それから幾ばくも経たない時分だった。
「なんか、以前わたくしどもが野で馬と駆けたことをお話ししたらその気になられたらしく……明日、明後日にでも出かけるとおっしゃって聞く耳をお持ちにならないんですよ」
 ただでさえ仕事が立て込んでるのに、と正直は狼狽している。益はこめかみにずきずきと痛みを感じた。頭痛がする。
「そう、ですか……」
 予想されたことでは、ある。内裏のうちに密かに飼わせるほど馬に熱中している陽成だ。このように内々で愛でているだけで満足するはずかない。しかし。
(遠駆けは、まずい)
 馬乗りの苦手な益が目付け役をこなせない、などという理由では勿論ない。そもそも帝がこのような場所で馬を飼わせていることからして異常なのだ。今までだって事を秘すためにギリギリのところを渡ってきた、というか一部の者にはとっくにバレているに決まっている。ただ、表沙汰にはなっていないだけで。だが帝自ら馬を繰り出しでもしたら、幾ら何でも隠し通せやしない。ここまで必死に食い止めてきたものが全て水泡に帰し、あっという間に現状は都人に知れ渡ってしまうだろう。
「……分かりました、主上は俺がきちんと見張っておきます。権少属殿たちはご自分の職務に集中して下さい」
 そんなわけで、益は日がな一日中陽成に張りついている。とは言ってもそれはいつものことなので、陽成本人を含め宮中の誰も、それを不審に思う者はいなかった。
 空を分厚い、冬特有の灰色の雲が流れていく。時折、冷たそうな風の音が耳に届く。風になびく御簾の向こうに、落ち葉がさらわれていく様子が見えた。
 綾綺殿には陽成や益のほか、僅かな近習の者に加え、紀君を含めた女官たちが控えていた。何やら不機嫌そうに脇息にもたれかかる陽成に声をかける者はいない。大抵の人間は必要以上に接触を持とうとしないし、この場にいる人物で彼に怖気づかずに接することができるのは、益を別とすれば筆頭女官である典侍の藤原淑子くらいなのだ。
 固く強ばった雰囲気に、益は焦燥を募らせた。嫌な流れだ。これでは、陽成が退屈しのぎに遠駆けでも、といつ思い至ってもおかしくない。昨日は平野祭や春日祭が催されたことも手伝って、自由に動けなかった鬱憤も溜まっているだろう。
(――母上を呼ぼうか)
 ふと浮かんだ考えを、益は即座に振り払う。全子に頼るわけにはいかない。ここは自分がどうにかしなければ。
 ずっとあらぬ方向を見つめていた陽成が、唐突に立ち上がった。気づいた女官が慌てて道を空け、御簾を持ち上げる。当然のようにそちらに向かう陽成に、益は厳しい口調で投げかけた。
「どちらにおいでになるのですか」
「……どこだっていいだろう」
 真剣な顔をした乳兄弟を鬱陶しそうにあしらい、構わず陽成は出て行こうとする。益はそれ以上進ませまいと、その正面に回り込んだ。少ししか身長が違わない二人は、真っ向から睨み合う形になる。
 陽成の表情に訝しさが覗いた。普段の益なら、今日のように予定が詰まっていない日まで陽成の行動を制限しようとはしない。既にその点は諦めていると思っていたのだ。なのに。
「どういうつもりだ」
「……あの者たちは、参りませんよ」
 周囲を憚り小声で囁く。すると陽成は瞠目した。
「益」
「俺が指示しました。お召しに従う必要はない、と」
「なんであいつらが、俺に背いてお前なんかに」
「主上。彼らが本心からあなたに従ったと思っているんですか?」
 陽成がはじかれたように身体を震わせる。苛立ちをあらわにしたまま益を見るが、言い返すことはなかった。代わりについと横を向くと、何の気なしを装って喋り出す。
「……なあ、生き物ってのは狭い檻に押し込めるよりも、自由に駆けさせてやった方が幸せだと思わないか?」
 夢を見るような目つきで、芝居がかった身振りをしてみせる。暗に飼い馬のことを指しているのだろうが、益は一瞬、その言葉が陽成自身の境遇を表しているかのような錯覚を覚えた。
「……それでしたら、年明け早々に節会がございます。そこで存分に楽しまれたらいかがでしょう」
 正月七日に挙行される、後世では白馬節会と称される行事だ。帝のいる紫宸殿の前で、馬寮の役人が沢山の馬を牽くそれは、儀式嫌いの陽成が珍しく好んでいる催しだった。
「ああ、勿論それはそれで楽しむさ」
 そこで陽成は初めて笑いかける。だがその瞳に映るのはいやに暗い色彩で、益はぞっと悪寒が走るのを感じ取った。
 益のおそれを察したのか、陽成はもう一度笑みを濃くすると、憑かれたような足取りで益の脇をすり抜ける。益はハッと我に返り、急いで陽成の行く手を阻んだ。
「お待ち下さい!」
「嫌だ」
「ならば――」
 その場にすっと片膝をつくと、益は陽成を真っ直ぐに見上げる。
「――ここから先は、通しません」
 益の様子が明らかに尋常ではないことに気づき、控えの女官たちは互いに顔を見合わせた。紀君が心配そうにこちらを見つめているのが視界の端に移ったが、反応している余裕はない。
「力ずくでも引き止めるってか? いっつも無様にやられているお前が」
 皆の前で殴り飛ばされたいか、と脅してくる陽成に、益は唇を噛み締める。苦さと塩辛さの入り混じる記憶が蘇り、すぐに消えた。こちらが拳で応戦するわけにはいかない。もし陽成が暴力に訴え出たら、黙って耐える方法を益は選ぶ。間違いなく。
 でも、そういうことではないのだ。
 唇を真一文字に引き結び、じっと瞳を見据えてくる益に、陽成はややたじろぐ。そして益は、陽成が厭うと知りながらもあえてこの言葉を紡いだ。
 

《次》

 

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