慶平霜雪秘聞
 
「……主上は、ご自身のお立場がお分かりでない」
「っ、またその台詞か! ……俺は帝だ! 何をしても許される!」
 想像通り、陽成の顔つきは一気に険しくなる。突然荒れ出した陽成の声色に、室内の者たちはびくついた。
 だが益は一人依然として顔色を変えず、微動だにしない。それが気に入らなかったのか、陽成の口調は更に激しさを増した。勢いよく益に人差し指を突きつけ、早口に言い募る。
「大体、分かっていないのはお前だろう、益! 臣下は主人に尽くすものじゃないのか!? 現に、ここにいる他の誰も、俺に意見する奴はいない!」
 陽成が大きく手を広げて近習たちを示すと、彼らは気まずそうに一斉に俯いた。
 勝ち誇ったようにふんぞり返る陽成に、益はただ首を横に振る。違う、と。あなたは間違っている、と主張するように。
「何も言われないのは、黙認されていることとは違うんです」
 決して陽成の挙動が許されているわけではない。既に、益以外たしなめる者すらいないのだ。ある者は怯え、ある者は無関心を決め込み、遠巻きに窺うばかりで。そして、陰で陽成の非行をあげつらっては眉をひそめる。
 それだけならまだいい。無責任な大多数の人々は、いいように噂話をして終わりだ。だが、中にはこう考える者だっているだろう。
 公卿との連携も取れない。幼い頃から慣れ親しんだ乳兄弟をも殴りつけ、実の伯父である基経すら手をつけられない。干渉されないのをいいことに、帝としてあるまじき乱行を繰り返す。
 そのような帝は必要ない、と。
 更に言えば、もともと陽成の、藤原北家外孫の即位を快く思っていない者だっている。そうした派閥からしてみれば、陽成の軽率な行動の数々は、彼を帝位から引きずり下ろすための格好のネタだ。
 生まれながらにして丁重な後見を受け、当たり前のように登極した陽成は気づいていない。己の足場は一見強固だが、油断すればすぐに音を立てて崩れ落ちるような脆弱さを併せ持っていることに。
 陽成は沈黙していた。板張りの床の上に佇み、臣下の構えを崩さない益に乾いた眼差しを注いでいる。その瞳に感情の色は見えない。
 日が徐々に陰っていく。どんよりとした雲が、いつの間にか太陽に覆いかぶさっていた。昼間は陽光に頼りきりの室内は、雲の移動に伴って薄暗さを深める。そのうち、雪が降り出すかも知れない。
「……まえは、……よ」
 閉じられていた陽成の唇が小さく動く。だが、その台詞は吹き荒ぶ風にかき消され、益の耳には届かなかった。
「――主上?」
 目を瞬かせる益の問いには答えず、陽成は彼に背を向けた。そのまま部屋の奥に向かって歩き始める。諦めてくれたのだ。そう思った益は心の底から安堵し、大きく息をついた。座り込んだまま三つ指をつき、主人の背中に向かって深く礼をする。しばらくの間を置き、辺りから微かなざわめきが上がった、そのとき。
 突如として目の前に閃光が散った。
 とてつもない衝撃が益の後頭部を襲い、お辞儀をしたままだった彼は思い切り床に叩きつけられる。次の瞬間ひどい吐き気を覚え、益は目を見開く。一拍遅れて、誰かの押し殺した悲鳴が聞こえた。 
「……う、あ……っ」
 激しい痛みに頭を押さえると、本来あるべき冠の手触りはなかった。むき出しになった頭髪に交じってねっとりとした感触がある。血だ、と益が認識する前に、流れ出たそれが額を伝って右目を塞ぐ。まるで涙が溢れたかのように。
 倒れたまま視線を上に動かすと、脇息を振り下ろした体勢で静止する陽成が視野に入る。その表情はやけに空虚で、底なしの得体の知れなさをまとっていて。
「……お……」
「黙れ」
 陽成は益と目が合うや否や再び脇息を振り上げ、勢いよく益を殴打した。反射的に益は頭を抱えて身を守るが、陽成の攻撃は止むどころかますます乱暴になる。規則的にひたすら益を打ち据えるその動きは、まるで狂ったからくり人形のようだ。見かねた公達の一人が腰を浮かしたものの、陽成が醸し出す雰囲気のあまりの異質さに恐れをなしたのか、それ以上のことはできなかった。
 それからも陽成は執拗に殴り続けた。どれくらいの時間が経っただろうか、ようやく彼の動きが止まったとき、益は力の抜けた四肢を床に投げ出し、微かに痙攣していた。綺麗に結い上げられていたであろう髻はぐしゃぐしゃになり、ずり落ちた冠が近くに転がっている。おびただしい血液はすでに床まで到達し、血だまりを作っている。そこに顔をうずめるような形で、益は伏臥していた。その目はとうに閉じられ、顔面は滴る鮮やかな血の色とは対照的に蒼白だ。

 ゴン、と短い音が辺りに響く。陽成の手から血まみれの脇息が滑り落ちたのだ。彼の顔つきは終始変わることなく、今も益をじっと見つめている。ぴくり、ぴくりという身体の動きはだんだんと曖昧になり、やがて完全に止まった。それを見届けた陽成は、興味をなくしたように踵を返すと戦慄する人々には目もくれず、のろのろとした歩みで部屋の奥へと消えた。
 残された者たちは一様に無言だった。誰もが信じられないといった表情で、目の前で虐待される益を見ていた。だが、微小に漂い始める血のにおいが、彼らに現実の悲惨さを突きつける。ある者は無残に横たわる肉塊から目を背け、別の者は腰を抜かして口をパクパク動かしている。紀君は両手で口元を覆い、これ以上ないほど目を瞠っていた。顔からは血の気が引き、倒れ伏す従弟の少年を食い入るように見つめている。
 それからのち、益が内裏に姿を見せることは二度となかった。
 

《次》

 

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