慶平霜雪秘聞
 
 何が起こっても時の流れる速さは変わらない。宮中にあっても例外があるはずもなく、その日もまた先日の変事を忘れたかのように、冷酷なほど穏やかな朝を迎えた。
 陽成はあれから、綾綺殿の奥にある御帳台に閉じ籠もったままだった。夜が明けても一向に這い出してくる気配はない。こんなときに起床を促すのは益の役目だったが、彼がいない今となっては誰も引き受ける者などいなかった。皆、陽成に近づきたくないのだ。仕方がないので、貧乏くじを引いた者が御帳台の近くに食事の膳を運び、頃合いを見計らって回収するという日々が続いた。
 一日目は全く手つかずだった食事は、翌日の夕餉になってようやく少しばかり減るようになった。四日も経つと半分ほどはなくなるようになり、陽成が衆人の面前に姿を現したのは事件から六日ほど過ぎた頃だった。
 心ここにあらずといった様子でふらふらと起き出した陽成は、瞳にぼんやりとした光をたたえていた。ただでさえ人少なだった陽成の御座所は、あの日以来著しく人手を欠いている。だだっ広い室内にいる面子が明らかに減っていることに気づきながら、陽成は何も言わなかった。
 上座にしつらえられた畳に腰を下ろし、真新しい脇息を引き寄せた陽成は、きょろきょろと辺りを見渡したかと思えば扇でせわしなく膝を叩いたりと落ち着きがない。誰もが主君を恐れ、思い思いの方向に視線を逸らすなか、彼は一番近くに座していた女官に扇を差し向けた。
「おい。……益はどこだ?」
「えっ? はあ、その……」
 飛び上がらんばかりに驚いた彼女は、言いづらそうに顔を背けた。ためらうような空白を挟み、こわごわと口を開く。
「……わたくしどもは、存じ上げません。典侍様が薬師の手配をなさいましたが」
「あいつ、あれから出仕していないのか」
「はい」
 頷いた女官は、それ以上の追及を避けるかのように俯いた。自分が知っているのはそれだけなのだから、と。
 くだんの典侍こと淑子が伺候する女官の列に加わったのは、そのやり取りの直後だった。控えの局から綾綺殿に渡ってきた淑子は、久々に顔を出した陽成に気づくと慇懃にお辞儀をする。
「主上におかれましては、本日もご機嫌うるわしゅう。もう御寝あそばされずとも宜しいので」
「ああ」
 あらぬ方角を眺めたまま陽成は答える。彼はこの女官が好きではなかった。ふと視線を感じると、やけに冷え冷えとした目でこちらを見ているということがよくあった。腹の底で何を考えているのか読み取れないのだ。
 そんな陽成の思いを知ってか知らずか、淑子は事務的に報告する。
「三日前に予定されていた大原野の祭のことですが、触穢により停止となりました」
「そうか」
「新嘗の祭も取り止めとのことにございます」
「そうか」
「双方、禁中に於ける死穢によるものです」
「そうか」
 死穢という単語に近習や女官たちが顔を見合わせるなか、なおざりに返す陽成。動揺するそぶりは皆無だ。正直、宮中祭祀がどうなろうが興味ない。むしろ煩わしい行事が消えてくれてせいせいしている。大方、内裏の片隅でどこの誰とも知れぬ死体でも見つかったのだろう。そのような出来事はこの時代、決して珍しいことではない。
「それより、益はどうした? いい加減、復帰してもいい頃だろう」
 けろりとした表情で尋ねる陽成に、淑子は平然と答える。
「かの者はもう、参りません」
「……何故だ。もう俺に仕えるのは嫌ってことか」
「先ほど申し上げました。此度の触穢は、禁中に於ける死穢によるものと」
 淑子の口調はあまりに淡々としすぎていて、ともすれば耳からすり抜けてしまいそうだった。次第にざわつき出す室内で、陽成は彼女の言葉を反芻し、信じがたい思いで身を乗り出した。
「……まさか、死んだってことか?」
 無言は肯定の証である。それ以上の説明は無用とばかりに黙る淑子に、陽成は構わず言い募る。
「嘘だろ。人間、あんな簡単に死ぬもんか」
 なあ、と同意を求めて辺りを見渡すが、誰も彼もが口をつぐむ。その表情は一様に悲壮で、恐怖に青ざめていて、でもどこかで納得しているようで。陽成の言い分は完膚なきまでに打ち砕かれる。
 皆が明言を避けるなか、陽成は独り口を動かし続けた。焦点の定まらない瞳をぐるぐる巡らせ、まるで自らに言い聞かせるような台詞を繰り返す。
「冗談やめろって。あいつ、こんなことで俺を懲らしめてるつもりか? どっかで隠れてて、反省させようって」
「…………だって」
 か細い声が、部屋の隅で発せられた。ずっと下を向いていた紀君が、唇を細かく震わせている。ただでさえ白い肌は今や色を失って、くりりとした丸い瞳には感情の起伏が見られない。
「だって……あんなに血が出ていたんですもの。床が、見たことないくらい真っ赤になって」
 そこまで呟いて、紀君はワッと泣き伏した。それに煽られたかのように、近侍する者たちは各々の心情をむき出しにした。或いは目に涙を浮かべ、或いは祈るように手をこすり合わせ、或いは陽成を、化け物を見るような目で窺い。ぴたりと静止した陽成と唯一冷静な淑子を残し、辺りは一時騒然となる。
 呆然と立ち尽くしていた陽成は、突然ハッと真顔になった。何を思ったか、一目散に部屋を飛び出す。階を駆け下り、ためらいなくそのまま屋外に下り立った。
「――主上?」
 異変に気づいた紀君が顔を上げるが、振り向いたときにはとうに陽成の姿はなかった。バサリと払いのけられた御簾が不安定に揺れており、彼がそこを通った余韻を残している。
 陽成は裸足のまま綾綺殿の庭を駆け抜けた。霜月の野外はかなり冷え切っている。踏みつけた石が容赦なく突き刺さり、肌をえぐった。不思議と痛みは感じなかった。ただ、早くあそこに行かねばという想いが陽成を突き動かしている。途中、誰かが呼び止める声が聞こえた気がするが、気に留めることなく走り続ける。
 感覚を失った足で向かった先に、まだ何も知らない清如たちがいるのが見えた。厩の前で作業をしていた二人は、足音に振り返るとそろってぎょっとする。
「お、主上!? どうしてそんなところから――」
「おい、馬を牽け!」
「ええ!?」
 待っている時間が惜しいとばかりに木戸を開け、自ら馬を引き出す。鐙に足をかけそのまままたがろうとする陽成を、清如たちは慌てて制止した。
「お待ち下さ……」
「出てこい、益!」
 怒鳴り声と共に馬を蹴り出すと、甲高い嘶きが周囲に響き渡った。
「聞こえてるんだろ!? どうした、いつもみたいに説教してみろ! ――益!!」
 あてどもなくこだました絶叫は、あまりに悲痛すぎた。微かな望みにすがるような呼びかけは、受け取り手のないままに反響して、やがて虚しく消え失せる。
 ひたすら殿舎の周りを回る陽成の声は、繰り返すごとにだんだん掠れていった。苦しげに何度も何度も発せられるそれは、回を増すごとに弱々しくなる。それでも陽成は、まるで声にせねば気が済まないとでもいうように、ひたすら口を動かし続けた。
「お前、こんな悪ふざけして赦されると思ってんのか? 見つけたら容赦しねえからな。だから早く、戻ってこい……」
 陽成の振る舞いを咎めることはあっても、他の連中のように放り出すことはなかった。いつも鬱陶しいほどについて回って、口うるさく小言を並べてきたくせに。
 枯れきった陽成の声とは反対に、馬の蹄の音だけは妙に軽快に鳴り響いている。最初は勢いよく駆けていたはずが、まるで乗り手の心境に呼応するかのように、今は速度を落としていた。
 絶望に満ちた目で何かを呟き続ける陽成は、傍目にはとても正気を保っているようには見えなくて。ようやく追いついた清如と正直は、明らかにおかしい陽成の様子に思わず声をかけることを躊躇した。
 騒ぎを聞きつけ、どこからかざわめきが近づいてくる。この事態が世間の明るみに出るのは、もはや時間の問題だった。
 

《次》

 

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