慶平霜雪秘聞
 
 目が覚めても、長いことぼうっとしていた。重い瞼をどうにかして持ち上げると、正面に薄暗い天井が広がっている。僅かに漏れ入る明かりがひどく目を刺激した。
 身体を起こそうとしても上手く力が入らない。ゆっくりと首を巡らすと、途端に猛烈な痛みが走り、益は悶絶した。
「うっ……」
 ズキズキと不快な感覚が頭部で鈍く響いている。のろのろと手を当てると、頭に巻きつけられた布に触れた。そこで初めて、益自身の手にも同じような処置が施されていることに気づく。そういえば、痛いのは頭のみではなかった。あまりの苦痛に気にする余裕もなかっただけで。
(……?)
 どうも記憶が混濁している。一体自分はどうしたんだろう。そしてここはどこなのだろうか。
 かたん、という音がした。視線だけでそちらを見ると、袿を羽織った、おそらく女房勤めをしていると思しき女性が、几帳の陰からこちらを窺っている。益よりはだいぶ年上だろうが、そう年かさでもない。三十代に届くかどうかといったところだ。どこかで見かけた顔のような気もするが、誰だったか。
「あ、の……ここは……?」
 途切れ途切れに言葉を吐き出すが、上手く呂律が回らない。女性は益がとりあえず意識を取り戻したことを確認すると、質問に答える代わりに小さく告げた。
「……殿をお呼びして参ります。しばしお待ちを」
 そして壁代の隙間から出て行ってしまう。残された益はわけの分からぬままに、行き場のない疑問と共に待つしかなかった。
 益の横たわる褥の四方にはやや厳重すぎるほどに几帳が立てかけてある。まるで監禁されているようだと思いながら、寝具代わりにかけられた袿を引き寄せ、その生地がやけに高級なものであることに気づく。誰がこんなものを用意したのだろう。
 気になることは山積みだったが、熟考するのにこのしつこい激痛は負担になりすぎた。またしてもぶり返してきた痛みに小さく呻き、益はしばらくじっとしておくことにする。
 キイ……と妻戸が開く音が聞こえた。衣擦れの音が少しずつやってきて、益は反射的に身を硬くする。察するに、複数人がこちらに向かってくるようだ。先ほどの女房がついているのか、それとも。
 緊張に息を殺していたなか、予告もなく几帳の一つが無遠慮に取っ払われた。
「気がついたか。……久しいね。私の顔が分かるか?」
 重厚な中年男性の声。恐る恐るそちらに視線を向けると、白の直衣に縹色の指貫を身に着けた男が益を見下ろしていた。中肉中背で、顔に刻まれた皺と灰色の髪や髭が、彼の生きてきた年月の長さを感じさせる。数回瞬きをしてその姿を見つめていた益は、記憶の中にこの男の顔があることに気づき、息を呑んだ。内裏で、陽成の行幸先で、高子の里下がりの場で、彼には何度もお目にかかっている。驚愕の色を含んだ言葉が、益の唇から漏れ出した。
「……ほ、堀河の……相国、様……」
 朦朧とした益からその呼び名が出たのを聞き届け、基経は満足げにニヤッと笑み崩れた。現職の摂政太政大臣。齢は四十八。高子の同母兄にして陽成の伯父である彼とは、物心ついた頃から顔を合わせていた。
 慌てて上体を起こそうとするが、弱りきった身体はいうことを聞いてくれない。それでも無理に動こうとする益に、基経は苦笑した。
「無茶はしない方がいい。生きるか死ぬかの瀬戸際だったのだから、安静にしておきなさい」
 しかしながら太政大臣の前で威儀を正さないわけにはいかず、必死に起き上がろうとする益だったが、基経の台詞に聞き捨てならないものを感じ取り、ぴたりと固まった。
「生きるか、死ぬかって……」
「覚えてないのかね?」
 意外そうな顔をする基経。益は己の掌をじっと見つめ、しばし思いを巡らせた。相変わらず痛む傷跡は、考えにふけるのを妨げると同時に、記憶の糸口をも引き寄せてくれる。
「…………ああ」
 やがてこぼれ落ちた呟きは、明確な嘆きを孕んでいて。
(俺、主上に殺されかけたんだ……)
 頭部を襲った衝撃。視界を覆い尽くした鮮血の色。こちらを見下ろす陽成の、無感動な瞳。
 狂ったように、何度も何度も叩きつけられた――。
「……正直、最初はもう駄目かと思ったよ」
 益が何を思ったかを正確に悟った基経は、彼を慮ってか声の高さを落とした。
「典侍から連絡を受けてね。急いで君を運び出したはいいが、なんせあの惨状だ」
「え……」
 益が声を上げると、基経の背後から新たな人物が顔を出した。典侍・淑子は基経の異母妹であり、彼とは懇意の仲だったことを思い出す。感謝を込めてぺこりと頭を下げると、黙ったまま会釈を返された。元来寡黙な女性なのだ。
「助かったのは、一発目が運良く急所を外れたのと、君がずっと頭を庇っていたおかげだそうだ。ただ、完全に治癒するかは分からないが――」
「それは……もう、充分です」
 生きていただけ奇跡なのだ。頭を守ったのだって、ただの偶然である。そもそも最初の一撃で彼岸の住人となっていてもおかしくなかったのだから。今更ながらにあのときの陽成の顔が浮かび、益は身をすくませる。
 邪険にされるのも怒りをぶつけられるのもいつものことだ。でも、あんな表情は見たことがない。狂気に駆られた、暗い、ひたすら暗い感情。
 あのとき、益は初めて陽成を恐ろしいと思った。
「……私は、どのくらい眠っておりましたか?」
「丸三日だな。ここに運び込んだときには、全く意識のない状態だった」
「……こことは?」
「ああ、私の自邸だよ」
 ということは、ここは堀河第だったのだ。だから先刻の女房に見覚えがあったのかと益は合点がいく。基経の邸なら、益も幾度か出入りしたことがある。
「申しわけありませんが、内裏の母に使いを出して頂けますか……? 私は、無事だと」
 きっと心配しているだろう。あの場にいた者たちだって、衝撃的だったに違いない。少しでも気持ちを和らげてやりたい思いから出た一言だったが、予想外なことに基経は頷いてくれなかった。渋面を作ると、ふっと視線を逸らしてしまう。淑子も無言だ。
「……本当は、君がもう少し回復してから話そうと思っていたんだが」
 基経は言いにくそうに目線を戻す。歯の隙間から無理やり押し出すような声だった。
「君に、重大な頼みがある」
 そして、益は思いも寄らない用件を突きつけられることになる。
「君を……『源益』を、このまま死んだことにさせてもらいたい」
 と。
 

《次》

 

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