慶平霜雪秘聞
 
 基経はひどく切迫した様子で、真っ直ぐに益を見据えていた。言われた意味が分からす、益はきょとんと基経を見返す。徐々に、徐々に彼の言葉が頭に染み込んできた。
「あの……それは、どういう……」
 どくん、どくん、と心臓が波打っている。動揺を隠せない益だったが、基経はどこまでも真剣だった。冗談を言っている雰囲気では全くない。更に紡がれる基経の真意に、益は世界がぐらりと揺れるのを感じた。
「……この機に、主上にご退位をお願いしようと思うのだ」
 どうして。どうしてそんな話が出てくるのか、益は当初理解ができなかった。
 その提案自体は、以前からずっと恐れていたものだった。万が一陽成の実態が白日のもとに晒されたら、必ずや足元をすくわれる。だからこそ、益は今まで必死になってことを隠蔽してきた。
 だが、何ゆえ基経が陽成退位を持ち出すのか。基経にとって陽成は、大事な手駒だったはずだ。彼が現在の地位を築けたのだって、陽成の存在あってこそではないか。別の公卿たちならともかく、他ならぬ基経の口からその台詞が出るということが、どうしても益には解せなかった。
「君も知っての通り、主上の挙動には目に余るものがある。加えて、今回の事件だ。……正直な話、主上は帝の器ではないと誰もが思っている」
 分かるね、と。だから、この機会に乗じて陽成を位から下ろしてしまおうというのだ。公衆の目の前であのような真似をしでかしただけでも充分まずいが、それでもただの暴行と殺人とでは重みが違う。帝が自ら臣下を殺害したとなれば、廃位に持ち込むのにこれ以上ない理由となる。
「……君が今まで、主上のために色々心を砕いてくれたのは良く知っている。伯父として、感謝するよ。その行為を無にするのは心苦しいが、実際のところもう限界なんだ」
 諭すような口調で基経は首を振る。そして、益の答えを待っている。彼が、是と頷くのを。
「あまり、恩着せがましい言い方はしたくないのだが……典侍の働きがなければ、君の命はとうに尽きていた。一度死んだも同然のその身、どうか我々に預けてはくれないだろうか」
 当代の有権者である基経が、たかが帝の乳兄弟ごときに眉根を下げて頼み込んでいる。いささか珍妙なその光景を益は現実味が湧かないまま眺めていた。
「…………すみません。起こして、頂けますか?」
 長い沈黙の末にそう頼むと、淑子が進み出て手伝ってくれた。彼女に体重を預け、益は悲鳴を上げる身体に鞭打って起き上がる。
 褥の上に座した益は、手の甲を額に当てて俯いた。そして、目を閉じて思案する。ふつふつとわき起こる感情が、頭の中でぐるぐる回っていた。
 何が「帝の器でない」だ。陽成をそのようにした原因の一端は、基経本人にもあるではないか。性情に問題があるなら、それを正しく教育するのが後見人として、摂政としての務めではなかったのか。それを丸投げして自邸に籠もったばかりか、あまつさえ陽成の目付け役をたった一人でこなしてきた益を他人事のようにねぎらう始末だ。
 先ほど基経は、益に対して「久しぶり」と言った。常日頃から陽成につき従っている益にだ。その言葉が似つかわしくなってしまうだけの期間、基経が参内を拒んでいるということを自覚しているからこその台詞。それが分かっていながら、どうしてそんなことが提案できるのか。あまりにも虫がよすぎる。
 本心ではそう基経をなじりたい気持ちでいっぱいだったが、益は拳に力を入れて懸命にこらえていた。それくらいの思慮分別は持ち合わせている。ただ、口を閉ざしていることがせめてもの抵抗だった。
 なかなか返事をする気配がない益に業を煮やしたのか、基経が再度口を開きかける。それを制したのは今まで黙して控えていた淑子だった。手振りで基経を黙らせると、座ったまま益の褥の近くまでにじり寄る。
「益殿。ここは主上の御為にも、相国様の仰せに従う方が宜しいかと」
「……どういう、ことですか?」
 怪訝に首を傾げる益に、淑子は無機質な声で説明する。
「今や主上は、完全に精神の均衡を崩しておいでです。今回はこれで済みましたが、今後、第二第三の被害が出ぬとも限りません」
「!」
 真っ先に清如や正直、そして紀君の顔が浮かんだ。
「この折に位を退かれれば、煩わしい宮中の雑事から離れて、主上も心安くなられましょう」
 そうかも、知れない。上皇という身軽な立場になれば、陽成もこれまでのように儀式に縛られることはなくなる。彼を閉じ込めていた内裏を出て、好きに生きることができるのだ。
 益の心に迷いが生じたのを淑子は見逃さなかった。瞳の奥がきらりと光る。
「それに……このまま内裏に戻ったとして、益殿は今まで通り主上にお仕えできるのですか?」
「――」
 ずばりと痛いところを的確に突かれ、益は返す言葉もなく絶句する。
 無論そのつもりだったが、一方で拒否の感情があるのも事実だ。あんな目には二度と遭いたくない。陽成に会うのが、怖い。
 でも、益がいなかったら誰が陽成の暴走を止めてくれる? そんな人物など存在しなかったからこそ、彼はずっと一人で頑張ってきたのではなかったか。益が去った内裏がどんな事態に陥るのか。想像したくもない。
 だったら、いっそのこと――。
 苦悩の淵に滑り込んでしまった益に、淑子は眼光を緩めた。もう伝えることは伝えたとでもいうように、平然と元の場所に戻ってしまう。益は一人、取り残された。
 揺れる思いは大きく右に振れ、左に触れ、やがてすとんと片側に傾く。
「…………一つだけ、お願い申し上げたいことがございます」
 苦しげに言葉を吐き出した益は、上目づかいで基経を見た。水気を帯びて潤んだ瞳は、彼がいかに辛い決断を抱えているかを如実に物語っている。
「どうか、主上の面目を潰さないでやって下さい。殺人者として大っぴらに糾弾し、廃位に追いやるようなことは――」
 いまだ体調の悪さが抜けないなか、深く深く頭を下げて懇願する益。その真摯な姿勢に、基経は溜息に似た台詞を投げかけた。
「……君も奇特な男だ。己を殺そうとした相手に、そこまで情けをかけるとは」
 そうではない。これは益の贖罪だ。だって、陽成がああなってしまったのは自分が至らないせいでもあるから。だから益は、陽成の強制退位に応じながらも、できる限り彼が惨めな思いをする羽目になることは避けたかった。
 頭を垂れたまま動こうとしない益の肩を、基経は優しく叩く。
「勿論、私としてもそのつもりだ。あれでも大切な甥っ子、伯父として、生涯後ろ盾となっていくのは当然だ」
「……お願い、します」
 その言葉を聞けたことに益は安堵する。基経とて、陽成が政界から離れれば、これまでのように反目する理由はなくなる。おそらく基経は本気でそう宣言してくれたのだろう。そう信じたい。
 もう、益は陽成の力になってやることはできない。今となっては基経だけが頼りだった。
 

《次》

 

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