慶平霜雪秘聞
 
 気が抜けたのか、益の首がかくんと落ちる。体勢を崩しかけた益は、慌てて前のめりに倒れ込んだ。
「長いこと話して疲れたんだろう。悪かったね、酷な話題に付き合わせて」
 基経の介添えにより、なすがままに益は褥に横たわる。基経は淑子に一つ頷くと、すっくと立ち上がった。
「あとで食事を運ばせる。今宵はゆっくり休みなさい。……君のことも、責任もって面倒を見させてもらうよ。引き取り手の心当たりはあるが、しばらくは私のもとで養生だな」
 じゃあ、と基経は片手を上げ、几帳の陰に消える。それに続いた淑子が几帳を戻し、するすると裾を引きずっていく。
 益はぼんやりと天井を見つめた。まるで、夢の中にいるようだった。でもこれは現実だ。無慈悲で、残酷な。
 これから益は、一生身を隠して生きていかねばならない。名目上は死亡したことになるのだから二度と家族には会えないし、官人として出仕するわけにもいかない。目立たぬよう、見つからぬよう、息を潜めて。
 ――あなたが主上をお守りするのですよ。
 ――どうか、主上を見捨てないでやって下さい。
 全子と紀君、それぞれ別の声が脳裏に蘇った。彼女らは、どう思うだろう。益が、陽成の手で殺害されたと聞いたら。
 嘆くだろう。悼むだろう。何より、後悔するだろう。益が陽成の傍を離れられなかったのは、自分があんなことを言ったせいではないか。あんなことを言わなければ、益は逃げることができたのでは、と。その傷はきっと、生涯彼女らを苛み、苦しめる。そのことに罪悪感を覚えもするけれど。
 それよりも益の心を占めているのは別のことで。
「俺、乳兄弟失格だよな……」
 情けなく宙に浮いた声は、すぐに霧散して掻き消える。主人のために職を全うすべき彼が、よりによって陽成を帝位から引きずり下ろすための陰謀に加担して。幾らそれが陽成のためとはいえ、これ以上の背信行為はない。
 でも、と益は思案する。彼を疎んじている陽成にとっては、おそらくこの方がいいのだ。事あるごとに口出しする相手がいなくなり、気楽になれることだろう。そう思うことで自身の気持ちに無理やり区切りをつける。
 もしや、今まで益が良かれと思いやってきたことが、実は逆に陽成を苦しめ、彼の心の調和を侵していたのではないか――そんなことにまで考えが及び、益はその思いつきを振り払うように寝床に潜り込んだ。
 
 人目を憚って簀子に出た基経は、ふっと目つきを鋭くした。後ろについていた淑子が振り返り、ぱたんと妻戸を閉める。
「……先刻は助かったよ。お前の言葉がなければ、説得に失敗したかも知れない」
「いえ」
 異母兄の感謝の言葉に、淑子は短く首を振る。内裏で間近から益の様子を見ているぶん、彼が何を一番に優先させるかも知っている。
「長く引き止めてしまったが、もういいだろう。急いで後宮に戻りなさい。……主上は、どうしている?」
「あれから知らせが入りませんので、おそらくまだ御帳台に引き籠っているかと」
「そうか。まあいい、出てきたら益のことを伝えてくれ。主上がどう出るかは分からんが……」
 気が重そうに基経は思索する。彼らにはこれから、事件の事後処理が待っている。さすがにこの重大事に、摂政が動かないわけにはいかないだろう。
「それにしても」
 静寂のなか、ぽつりと放たれた淑子の声に反応し、基経は立ち止まる。淑子は基経だけに届くよう、低く抑えられた声音で囁いた。
「わざわざ了解など取りつけずとも、ようございましたのに。いっそ意識のないうちに片づけてしまえば、もっと簡単に――」
「……相変わらず、典侍は恐ろしいことを言ってくれる」
 物騒な淑子の言葉に、基経は頬に汗を滲ませた。お前が敵でなくて良かったよ、と苦笑いする。唇の端に笑みを乗せたまま、基経は独りごちた。
「これでいいんだよ。むやみな殺生は、本意ではない」
 そのまま、機嫌よさそうに寝殿に戻っていく。淑子はやや不満げな顔のまま、冬枯れの庭先を見つめていた。

 
 それから約二十年後、基経の嫡男・藤原時平らを中心として編まれた正史『日本三代実録』が完成する。その巻四十四に収録された元慶七年十一月十日条には、次のような記述が見られる。
 
“十日癸酉。散位從五位下源朝臣蔭之男侍殿上。猝然被格殺。禁省事秘。外人無知焉。。帝乳母從五位下紀朝臣全子所生也。”
 
 神聖なる宮中での殺人事件という未曽有の出来事だったが、史書は多くを語らず、加害者についてすら言及していない。以後の顛末も一言たりとして記されず、真相は闇に葬られた。
 源益について判明していることは、実のところそう多くない。益の名が本書に登場するのは、後にも先にもこの記事のみだ。たったこれだけの短い足跡を最後に、彼は歴史の表舞台から姿を消すこととなるのだ。
 

《次》

 

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