慶平霜雪秘聞
 
 益が目覚めたときに控えていた女房は、伺候名を右京といった。なるべく接する人間を増やしたくないのか、益の世話はほぼ全て彼女に託されたらしい。
 彼らは現在、二条大路と西洞院大路が交差したところに位置する閑院第にいた。堀河第のすぐ隣であるここは、基経が所有する別邸だ。主な本拠地である堀河第とは違い、物忌みなどの私的なことにしか用いられないので、人の出入りもさほどではない。益を匿うにはもってこい、ということである。
 右京は聡い女房なようで、基経から知らされた様子もないのに、益の身元はある程度勘づいているようだった。益がそうであったように、彼女も堀河第に顔を見せる益を記憶していたのだろうか。それとも、巷に広まりつつある宮中での傷害事件と、秘密裏に運ばれてきたこの怪我人を結びつけたのかも知れない。
 右京は毎日、人から伝え聞いたと思しき内裏の様子を教えてくれた。そのおかげで益は、宮廷祭祀の重要行事である新嘗祭や豊明節会が停められたことも、彼の「死」の収拾のために多くの役人が奔走していることも知っている。本来ならすぐにでも忘れ去られたであろう一官人の死が、大きな波紋を巻き起こしている。
「……昨日、主上がご寝所からお出ましになられたそうです」
 朝餉を準備しながらそう告げられたとき、益の心臓は急激に跳ね上がった。いまだ続いている頭痛すらもどこかに消し飛んでしまう。
「そう、ですか」
 努めて平静を装っているが、その横顔は不自然に強ばっている。ということは、陽成はもう益の死亡を聞いているはずだ。少しくらいは哀しんでくれたのだろうか。もしかしたら、せいせいしたと思われている可能性もあるけれど。
 ぎゅっと寝間着の裾を握り締めていると、給仕する右京の口から予想外の言葉が飛び出した。
「何でも主上は、内裏の庭を馬で駆け回られたとか……あくまで、噂ではありますが」
「う、ま?」
 益が間抜け面で訊き返すと、右京はええ、と首を縦に振る。
 どういうことなのだろう。乳兄弟の死を聞いたその日に馬を乗り回す感覚が、益には理解できない。陽成の益に対する無関心の表れとしか思えなくて、益は脱力した。
(主上にとっては俺がいようがいまいが、心底どうでもいいんだな……)
 気が抜けてしまって、がくりと床に倒れ込む。そこで益はハッと気がついた。反動で起き上がり、掴みかからんばかりの勢いで右京を問い詰める。
「右京さん! 内裏で走り回ったってことは、つまり――」
 隠し通してきた秘事。基経は知っていたにしても、ただのお付き女房である右京に教えるわけがない。
「主上にけしからぬ遊びを教えた不埒者は、内裏を追放されたそうです」
「――!」
 小野清如、紀正直、藤原公門(ふじわらのきみかど)。聞き覚えのある名が次々と右京の口から流れていく。皆、陽成の破天荒な振る舞いに付き合わされていた者ばかりだ。益は歯を食いしばり、顔を覆う。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。帝を守ってくれと、他には何もいらないと言った代償はこんなにも大きい。
 陽成の命に仕方なく従っていた彼らは処罰されたというのに、最も責めを負うべき自分はここで基経の庇護をこうむっていて。でも、もう後戻りはできない。
 それからの陽成は、再び籠もりきりになってしまったらしい。年明けて元慶八年を迎えても変化はなく、悪天候もあって朝賀の儀は行われず、踏歌節会や射礼といった正月恒例の行事にも陽成の臨御はなかった。あれほど楽しみにしていた白馬節会ですら姿を見せなかった。結果的にこれが、彼の在位時代最後の白馬節会となった。
 月改まり二月四日、陽成から基経のもとに、自筆の書簡が届けられた。近年病篤く政務は身に余るため、帝位を退きたいと訴えるその内容は、彼の傍近く仕えた者なら滑稽にも思えるものである。とにもかくにもこの要望は受理され、表向きは病気による退位ということでひとまず陽成の面子は保たれた。年若く皇太子がいなかった陽成の跡には、彼の大叔父である五十五歳の式部卿宮・時康親王が即位する。のちの光孝天皇である。文徳・清和・陽成と三代続いた皇統から外れての選出であり、こうした例はあまりない。ちなみに光孝は、基経とは従兄弟同士という間柄であった。
 陽成が上皇と呼ばれる立場になったその年、益は紀君が陽成の男児を産み落としたという話を聞いた。だが紀君はそれと同時に陽成のもとを辞し、実家に戻ってしまったそうだ。昨年から身籠っていた彼女はその年のうちに内裏を退出し、出産のことが終わったあとも陽成のいる二条院には帰ろうとしなかった。目の前で主人が従弟を殴り殺すという惨劇を目の当たりにしてしまい、心優しい彼女にはそれが耐えられなかったのだろうと人々は揃って同情した。
 我が子を殺された全子も当然里に下がり、益を知る者は陽成の近くにはほとんどいなくなってしまった。こうして、事件は少しずつ、少しずつ終息に向かっている。
 

《次》

 

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