慶平霜雪秘聞
 
 もともと高齢だったこともあり、光孝の治世も長くは続かなかった。即位から三年後の仁和三年八月、光孝の崩御を受けて新たに帝位を継いだのは、臣籍に降って皇族の身分を離れていた源定省(みなもとのさだみ)――宇多天皇だ。この異例の処遇がなされた背後には、彼を猶子としており、今は尚侍として後宮に君臨する淑子の強い働きかけがあったからとも言われる。
(そうか、王侍従(おうのじじゅう)様が……)
 宇多はかつて陽成に仕えていた人物で、年も近かったので益も彼のことはよく覚えていた。ただの諸王の一人にすぎなかった彼がまさか登極する日が来ようとは、宇多本人ですら予想だにしていなかっただろう。
 しかし、三年前にしろ今回にしろ、何故陽成のあまたの弟宮、特に同母の貞保(さだやす)親王や基経女所生の異母弟・貞辰(さだとき)親王を退けてまで、傍系だったはずの光孝・宇多が即位するに至ったのか。益としても疑問に思わないでもなかった。だが、そんな話も今となっては遠い出来事だ。
 益はあのあと、上手く動かない身体と唐突に襲う吐き気とを抱えたまま、ここ観慶寺に預けられた。別名を祇園寺ともいうこの寺は基経と縁も深い。彼の遠縁という名目でここに入った益は、出家入道して読経三昧の日々を送っている。僧侶となるのに抵抗はなかった。身を隠すには都合がいいし、何より益はもう、俗世で生きることに疲れきっていたから。
 とある事件により即位当初は暗雲が垂れ込めていた宇多の御世も、だんだんと上向き傾向にあるようだった。そんな感じで都が平穏を取り戻しつつあった頃、益は奇妙な噂を耳にする。
「え、院の……?」
 寛平元年頃から、陽成やその取り巻きたちの悪行が膾炙され始めた。下人の家に押し入り杖や鞭で女子供を追い回した、狩りに訪れた先の邸宅を占領した、挙句には侍女を捕縛し、池の底に沈めた――等々。
 くらりと眩暈がした。退位以来、大した問題もなく過ごしていると思ったのに。どうして、今になって。
「また院がひと悶着起こされたそうで」
「今度は左大臣様の別邸を襲撃されたそうな」
「果てにはお邸の馬を奪って野を駆け回ったとか」
「帝もかの院相手ではどうすることもできず、日々お悩みらしい」
 上皇という尊位、かつ身軽な身分だけに始末が悪かった。明らかに在位時よりも素行が悪化しているではないか。所構わず暴れ回る陽成の荒れようはどうしようもない。陽成は今年で二十二歳だ。益を殴り「殺した」十六歳の少年ではない。もう、幼さが抜けない年頃という言い訳は通用しない。
 可能ならば即座に二条院まで飛んでいき、この目で陽成の様子を確かめたかった。だが、基経と約束してしまった以上それは見込めない。観慶寺には彼が用意した下人――益の介助要員ということだが実質見張り役だ――が目を光らせている。杖をつかねばならない不如意な身体を引きずって外出しようものなら、たちまち邪魔に入るだろう。
「どうした? ……気分が悪いのか?」
 苦しげに襟元を掴んで頬から血の気を引かせている益に、寺の仲間が声をかけた。返事をしたいが、口を開くと込み上げてきた胃の内容物を吐き出してしまいそうだ。
「身体弱いんだから、無理はするなよ」
 気遣ってくれる友人に気力を振り絞って頭を下げ、口元を押さえながらふらふらと退室する。今日はもう、とても起きていられそうにない。
 益にとってもその他の人々にとっても幸いなことに、暮れの左大臣邸奇襲を最後に陽成の乱行の話はぱったりと途絶えた。その代わりのように、京の街中では基経の体調が芳しくないという噂が取沙汰されることが増え始めてきた。
 
 近頃の基経はどうも臥せりがちになってしまった。病状は一向に回復しないらしく十月の末には大赦が行われ、朝廷より基経のもとに度者三十人が送られた。
 もう五十五の基経だ。来るべきものがやってきたのやも知れぬと京の住人は陰で囁き合っている。大きな声では言えないが、益も同じ思いだった。
 そんななか、観慶寺の僧たちにも病平癒の祈祷をせよとの命令が下り、益も堀河第への同行が許された。彼が観慶寺の院主に頼み込んだのだ。院主は、世話になった遠縁の恩人が心配なのだろうと納得してくれた。当然基経を案じる気持ちもあるが、何より基経本人に会いたかった。益を益と知っている人と、益としてでしか話せないことが沢山あった。
 堀河第には連日、様々な寺の者たちが招かれている。ひっきりなしに誦経が聞こえるなか、時折憑坐の甲高い悲鳴が響く。
 一心不乱に僧侶が経文を口ずさむ。益も負けじと声を張り上げた。大勢の祈りが一体になると同時に掻き消されるこの声は、基経に届くだろうか。
 すると、御簾を隔てた向こうに横たわっていた基経の影が身じろぎした。年かさで、いかにも基経の信任篤い古参女房といった風体の女性が膝行し、しつらえられた寝所を覗き込む。
「……本日はどこの者が参っている?」
「八坂の、観慶寺の方々にございます」
「そうか……」
 ぼそぼそと消え入りがちな会話が聞こえる。基経はしばらく瞼を閉じたあと、意外な指示を出した。
「院主に伝えよ。今日はだいぶ楽になったから、祈祷を止めてくれ」
「え……」
 伝言を受けた院主は、不審そうに眉を寄せる。
「相国様がそのような? 誦経を止めよとは……まさか、お憑きしている物の怪がそう言わせているのでは」
「わたくしもそう思いましたが、いつものお殿様と別段変わったところはございませんでしたし……静かにお休みになりたいとの仰せももっともらしくて」
「はあ……」
 複雑な顔で院主は、渋々了承する。祈祷の効験があったにしても、わざわざ中断させる必要はなかろうに。こちらが懸命に祈っているというのに、基経には耳障りでしかなかったのだろうか。ありがたい仏の教えを何だと思っているのか。
 来て早々に帰る羽目になった観慶寺の集団に交じって、益も深く落胆していた。まるで追い払われるみたいだ。基経は、観慶寺の名を聞いて何も感じなかったのだろうか。これが、基経に会う最後の機会だったかも知れないのに。よたよた足を引きずりながら、頭には、虚しさばかりが渦巻いていた。
 直後、突然袖を引かれ、益は背後を見る。そこにいた女性に目を瞠った。
「う、右京さん!?」
 基経のもとで療養していた頃、ひたすら世話になった彼女だった。観慶寺に移って以来、顔を合わせるのは初めてで、その間に流れた歳月は右京の面差しを老けさせていたが、益はすぐに分かった。右京は目だけで肯定すると、背伸びして益の耳元に口を寄せた。
「――殿がお呼びです。どうぞこちらに」
 

《次》

 

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