慶平霜雪秘聞
 
 こっそり裏から回り込んで室内に足を踏み入れると、視界を遮る几帳が目に入った。言われるままに用意された茵に座り、几帳と向かい合う。この反対側に基経がいて、今もなお病臥しているのだ。
 何となく既視感を覚えた益は、しばらく考えて納得する。同じなのだ。この構図が、益の人生を変えたあの日と。ただ、臥せっているのが基経で、見舞っているのが益というその点が変化しているだけ。
 そういえば、あのときも霜月の、こんな寒い日だった。今にも雪が降りそうで、分厚い雲が太陽を隠していて。
 人払いが済み、室内には右京を含め伺候する者はいない。益と基経の二人きりだ。沈黙が続くなか、益は見えないと分かっていてもつい、両手をついて恭しく礼をしてしまう。
「……相国様。お召しと伺い参上致しました」
 源益にございます、と続けようとして我に返る。幾ら他に誰もいないとはいえ、この名はとうに捨てた身だ。
「ああ……久しいな」
 遅れて返ったのは、低く、くぐもった声だ。意図したわけでもないだろうが、七年前と同じその台詞に、益は回顧の念を禁じ得ない。
 もしあのとき、基経の依頼を断っていたら。自分は今頃どこで、何をしていたのだろうか。
「あの……」
「私を……恨んでいるか?」
 切り出しかけた言葉を封じられ、益は目を瞬かせた。驚くほどしわがれた声だった。これがあの基経かと思うと、過ぎ去った時の長さを否が応でも実感してしまう。
「……相国様は」
 返答に窮しつつも、益は正面を見て語りかける。
「あのときの約束を、きちんと守って下さいました。どうして恨みに思うことがございましょう」
 後悔、しなかったわけではない。本当にこれで良かったのか、基経の提案を受けるべきではなかったのでは、と。
 でも、だからといってそれを彼のせいにするのは筋違いだ。
「そうか……」
 横たわったままの基経から、あからさまな安堵の声が発せられた。ふう、と荒い息遣いが聞こえる。
「いや、これまで散々人に我慢を強いて、それを悪いとも思わなんだが……死期が近づいた今となっては、本当に私のしてきたことは正しかったのかと、後悔ばかりが胸を占めてな」
 自嘲するような溜息が漏れた。基経がいう「人」というのは、何も益や陽成に限った話ではない。無理やり妹の高子を亡き清和の後宮に送り込み、そのあとで二人の娘も入内させた。何重にも駒を配置した甲斐あって、陽成を初めとした己に連なる系統の男皇子を上げるという目的が達成できたにも拘わらず、結局は自分自身の手でそれを破綻させる結果になってしまった。今まで彼が成し遂げてきたことは何だったのか。冷たい寝床のなかで、基経は思いに沈んでいる。
 基経の悩みは益と類似のもので、でも歩んできた道のりの長さと立場の重さだけ深刻で、益には返すべき言葉が見つからなかった。そして、深く嘆息する。やはり自分は、一生この人を憎めない。一時は憤りを覚えたこともある。でも、目の前でこんな姿を見せられては、むしろ同情の方が勝ってしまうではないか。
 だって、益は基経の甥皇子の「元」乳兄弟でしかない。そんな年も身分も、立場さえも隔たった人物の前でしか弱音を吐けない。自己肯定してもらいたいなら、家族や腹心など、適当な相手は他にいる。しかし、基経は彼らに弱みを見せられないのだ。
「院はその後、お変わりありませんか」
 長い無言の空白を経て、益は質問する。己の過去は捨てたとはいえ、これくらいは尋ねても許されるだろう。陽成退位ののちも、基経は後見として、伯父としてたびたび二条院を訪れているはずだった。
「うむ……騎射を催されたり狩りにお出ましになられたりと、相変わらずお元気そうだ」
 本当に、相変わらずだ。宮廷の行事もなくなり、ここぞとばかりに馬を乗り回している陽成の姿が容易に思い浮かぶ。ただ、その容貌は、益の知る十六歳の彼のままだったが。
「それと、藤原遠長の娘との間に、先日男児が誕生したそうだ」
「それは……おめでたいですね」
 女性の出自に聞き覚えはなかったから、おそらく退位後の配偶なのだろう。紀君のときも思ったが、陽成が父親というのがどうも不思議に思えてしまう。
 遠くで何やら騒々しい音が聞こえる。観慶寺の僧たちが邸を出立しているのだろうかと思いながら、益は続けた。
「そういえば、昨年は……その、院の身辺に不穏な噂が取り巻いておりましたが、あれは……?」
「ああ……そのようなことも、あったな……」
 たどたどしくも肯定する基経の言葉を聞いたとき、益の心に重いものがのしかかった。ということは、あれは単なる中傷ではなかったのだ。しかし基経は、益の心境など気にも留めない。
「まあ、院にも色々思う所がおありだったのだろう。それも、無理からぬ話よ……」
「はあ……」
 基経には、何が陽成をあそこまですさませたのか、その原因が分かっているのだろうか。益には分からないことだらけで、詳しく追及しようと身を乗り出す。そこで、先ほどの騒音がどんどん大きくなっていることに気づいた。一体何事だろうか。同じことを感じたのか、基経も起き上がりたそうにゴソゴソと動いている。耳をそばだててみると、ざわざわと騒ぐ人々に交じって、微かに馬の嘶きが響いている。
「……少し、様子を見て参りましょうか?」
「いや……必要ならば誰ぞが知らせに来るだろう」
 その言葉通り、すぐにどたばたと落ち着きのない足音が近づいてきた。いつもは冷静沈着なはずの右京が、慌てふためいて部屋に飛び込んでくる。
「申し上げます! ただいま院が、こちらにお渡りに――」
「ええっ!?」
 まさかの展開に益は仰天する。幾らここ、堀河第と二条院が目と鼻の先の距離とはいえ、予想もしなかった事態だ。
 息を切らせた右京は、厳しい顔つきで益の背を押す。
「……そちらの方は、ひとまずここを離れた方が宜しいでしょう。どこかに隠れる場所は――」
「上皇様! まずはお席を設けますから、ああっ」
 右京の声に、陽成を制止する女房の声が重なった。どすどすと荒々しい足音が次第に大きくなる。妻戸が軋み、壁代がばさりと乱暴に跳ね除けられた。
「相国! 見舞いに来てやったぞ、ありがたく思え」
 記憶をこじ開ける青年の声。恐る恐る顧みると、離れていた七年間分だけ長じた、二十三歳の陽成がそこにいた。
 

《次》

 

歴史創作に戻る

inserted by FC2 system