慶平霜雪秘聞
 
 腰が抜けるかと思った。引きつった顔で陽成を見上げる益は、もう駄目だと覚悟する。おそらく、基経や右京も同じ心情だろう。
 室内をぐるりと見渡した陽成は、こちらを凝視している益と目が合うと拍子抜けしたようだった。
「何だ、僧侶どもはもう帰ったと聞いたが……まだ残ってたのか」
 面白くなさそうに舌打ちする。そっけない物言いに、益は呆けたまま陽成を見つめた。どうやら、ここにいるのが益だということに全く気づいていないらしい。
 安堵したような失望したような、それでもやはり胸を撫で下ろした益は、そさくさと杖を手に立ち上がった。何気なさを装って一礼する。
「それでは相国様、私はそろそろ……」
「うむ、長話に付き合わせて悪かったな」
 わざとらしい言葉に見送られ、益はその場を後にした。右京が逡巡するような眼差しを向けてくるが、結局基経のもとに残ることを決めたようだ。陽成のための席を準備し始める。
 簀子に出ると、ひんやりとした真冬の空気が感覚を刺激する。益は身震いして両手をさすった。早く、観慶寺に戻った方が良さそうだ。
 不自由な足を引きずりながら渡殿に降り立ち、ふと気づく。行きは特別に院主の牛車に同乗させてもらってここまで来た益だが、よく考えたら帰りは一人だ。基経に頼めば牛車くらい手配してくれたとは思うが、今となってはもう遅い。せめて右京についてきてもらえば良かった。
 途方に暮れた益は、とりあえず適当な場所で待たせてもらおうと母屋に向かった。事情を話せば分かってもらえるだろう。
「……あ」
 くらりと視界が回転し、益は咄嗟に高欄に手をつく。ひどい眩暈だ。毎度のこととはいえ、よりによってこんなときまで。
 しゃがみ込んでじっとしていると、思いのほか心音が激しく脈動しているのが聞こえる。やはり不意の陽成の登場に衝撃を受けていたらしい。
 ずきん、と鈍い痛みが頭部を貫いた。闇の奥に、あのときの光景が蘇る。猛烈な痛みが、血の臭いが、転がった脇息が、陽成の表情、声、動作――次々に断片的な記憶が呼び覚まされ、目が回って気持ちが悪い。
 ――いいから、さっさと行こうぜ!
 ――これうまい! お前も食ってみろよ!
 ――おれがすすむをだいじんにしてやる!
 ――はは、何してんだよ、へったくそ!
 ――おい、あの馬の毛並よくね?
 ――何だよ、いちいちうっせーなー
 ――お前には関係ねえよ……
 ――どうして俺が妥協しなきゃいけないんだよ!!
 ――臣下は主人に尽くすものじゃないのか!?
 様々な台詞がわんわん反響し、益は両手できつく、耳を塞いだ。過去から順に、楽しげだった声がどんどん激しく、冷たいものになっていく。
 歯をギリリと噛み締めてうずくまっていると、突然腕を掴まれた。ぐいっと引っ張られ、驚いて目を開けると、片手を振り上げた陽成がそこにいて――そのまま益は平手打ちにされた。
 
 不意打ちだった。益は呆然として頬に手を当て、恐る恐る顔を上げる。すると、予想に反して平然とした顔の陽成と目が合った。思わず間抜けな声が漏れる。
「あ、のう……?」
「呼んでも返事しねえし、なんか具合悪そうだったから。これで気分も戻っただろ?」
 陽成にしてみれば気つけ代わりの一発だったということだ。どうしてそれで全力の攻撃を受けねばならないのか、益は釈然としなかった。しかし、「ただの僧侶」である自分が「上皇様」に対して文句を垂れるわけにはいかない。益は不満を呑み込むと、その代わりに当然の疑問を口にする。
「お、畏れながら……何故、院がこちらに? 相国様とお会いしていらしたはずでは」
「そのつもりだったがやめた。弱った相国を相手にしたところで面白くもない」
 ふん、と鼻息荒く陽成は階に腰かける。そして顎をしゃくって益にも座るように促した。不安を覚えたが、正体がばれたわけでもなさそうだし、逆らうのも分が悪いと思った益は平静を装って従う。
「ところでお前、どうして俺のことを知ってんだ?」
「……先ほど、相国様のご寝所にいらしたときにお会いしたではありませんか」
 ぎくりと内心では狼狽しつつも真顔で返す。そうだったか? と陽成は興味なさげにそっぽを向いた。偶然居合わせた僧の顔など覚えていられるか、という顔だった。
「ふーん……お前、相国の隠し子か何かか?」
「はい!?」
 脈絡がなさすぎる質問に益は素っ頓狂な声を上げる。
「傍に女房も置かずに話していたから、よっぽど親しい仲なのかと思って。年から言ってもそんな感じだろう」
「とんでもありません、単なる遠縁です。相国様には色々とお世話になったのですよ。私には父も、母もいないので」
 あらかじめ用意されていた設定をすらすら並び立てる。観慶寺でもこの肩書きで通している。どうでもいいが、もし本当に隠し子だったら、陽成とは従兄弟同士になるのか、とぼんやり思った。
 なるべく視線が通わないよう、不自然にならない程度に庭を眺める。それでもやはり気になって、横目で陽成の様子を窺うと、彼も同じように庭を見やっていた。隣に座る僧侶には、それほど興味はないらしい。
 二度と相まみえることはないと思っていた。そんな彼が、今こうして隣にいる。言葉を交わしている。信じられない気持ちだった。

 

《次》

 

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