慶平霜雪秘聞
 
「……ところで、相国の容態はどうだ?」
 陽成は投げ出した足を寄せ、片膝を抱える。
「私には何とも……ご本人はかなりお気弱になられているご様子でしたが」
 先刻までの会話を思い出す。几帳越しの対面だったため、外見上の衰弱ぶりは分からなかったが、発せられる声にかつての張りはなかった。
「ははっ、あのじじいも随分と落ちたもんだ。ちょっと前までは散々好き勝手やってきたくせに」
 それは陽成にだけは言われたくないのでは、と益は胸中で突っ込みを入れる。しかし陽成はこらえきれないようで、くっくっと笑い声を立て続けた。
「あれなんか秀逸だったな。覚えているか? 三年前の」
「三年前、ですか?」
「どっかの学者が起草した詔勅にいちゃもんつけたアレだ」
 阿衡の紛議として後世に伝わる出来事だ。宇多が即位して間もない頃、基経に関白を任せることを記した勅書に「阿衡」の単語が用いられていたことから発展した事件で、阿衡とは唐の言葉で関白を意味する語だったのだが、阿衡は職権のないただの名誉職であることを聞きつけた基経はこれを不服とし、半年以上に渡る出仕拒否を断行したのだった。最終的には宇多の側が譲歩し、詔勅の取り下げという異例の事態にまで及んだ。「綸言汗の如し」と呼ばれ、一度発せられたら訂正不可能であるはずの天子の発言すらも覆してしまう、基経の政治的影響力を内外に知らしめることとなった。
 その事件だったら、益の記憶にも残っていた。しかし、陽成の言うように基経の横暴といった印象は感じていなかったため、つい首を捻ってしまう。その手応えのない反応が癪に障ったのか、陽成は益を軽くねめつけた。
「どうした? 不満そうだな。何か言いたいことでもあるのか?」
「あ……」
 益は逡巡する。ここで意見してしまってもいいものだろうか。だが、陽成の性格を考えると、ここで黙り込めばますます不快に思うだろう。
「え、えっと……原義を深く調べずに安易に使った方にも問題があったのではないかと考えていたので、一概に相国様を悪し様に仰せになるのは如何なものかと思いまして」
 やんわりと益がたしなめるように言うと、陽成は訝しげな顔つきになった。しかし、すぐに馬鹿にするように笑みを深める。
「お前は何にも分かっちゃいねえな」
「え?」
「相国は、別に阿衡と書かれていたことが気に食わなかったわけじゃねえよ。大体阿衡って言葉は、先帝の代に相国自身が使ってんだから。あのじじいは単純に、自分に逆らったらどうなるか脅しをかけたかったんだ」
 それは、陽成自身も在位時代に体験したことだった。そりの合わない相手を屈服させるために、政務を投げ出すことで政局を混乱させる。かつて見事にしてやられたやり口を、陽成は他人事のように語っている。
「あの腐れ侍従も、さぞや煮え湯を飲まされたことだろうよ。ざまあみろだ」
 汚いものを吐き捨てるような陽成に、益は疑問を抱く。陽成の言う腐れ侍従とは、文脈的に宇多のことを指す以外にありえないが、二人はそこまで仲が悪かっただろうか。陽成のもとに出仕していた頃の宇多からは、特に悪い人間という印象は受けていなかったけれど。
「そ、それは随分なおっしゃりようですね……随分毛嫌いしていらっしゃるご様子ですが」
「……あいつのことはいい。それより、相国の話だ。もう、長くはないのか」
 陽成は強引に話を戻す。そんなに気になるなら己の目で確かめてくれば良かったのに。益はやや呆れつつも問い返した。
「院は、相国様が心配ですか?」
 自分のときは嬉々として馬と遊んでいたらしいのに、と益は寂しさとも嫉妬ともつかない感情を覚える。陽成は少し、考え込むような間を経て答えた。
「そりゃあ……一応は俺の後ろ盾だからな、死んでもらっちゃあ困ることもある。色々とむかつくことはされたがな」
「それは、ご退位の折の?」
 思わず訊いてしまった。陽成はあのことをどう思っているのか。この七年、気になって仕方がなかったこと。
 陽成はパッとこちらを向くと、じいっと益の目を注視した。そして、嘲るように鼻で笑う。
「ふん、やっぱりそうか……」
「え」
「公式には病で退位ってなってんのに、こんな一介の僧ですらろくに信じちゃいない。そりゃそうだよな、あんな言い訳に誰が騙されるもんか」
 歯の隙間から押し殺した笑いが漏れ聞こえる。ひとしきり笑ったあとで、陽成は益に向き直った。
「確かにあれは、相国の手による強制退位だ。でも、別にそれ自体を恨んでは……いや、今となっては腹立たしいが……」
「?」
 意味深な呟きに益は首を捻る。が、陽成はどうでもいいというように手をひらひらと振った。
「所詮は、自分で蒔いた種だ。……お前も聞いてるんだろう?」
「っ!」
 にたり、と陽成の顔が凶悪に歪む。どくん、と心臓の鼓動が一回、大きく轟いた。
「人を殺したんだよ」
 

《次》

 

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