慶平霜雪秘聞
 
 その表情は、あのときの無感動な顔とは全く違うはずなのに、同じような底知れぬ暗い影を帯びていて。先ほど吹っ飛んだはずの恐怖が、またしても喉元からせり上がってくるのを感じた。
「知ってるか? 人って案外、簡単に死んじまうんだぜ?」
 一気に益の顔色が変わったためだろうか、陽成は彼の襟元に手を伸ばす。掴み上げ、いたぶるような調子で語りかけた。
「平気そうな面しやがって、その実ずっと怯えてたのか? そりゃあそうだろうなあ、こんな人殺しと関わりたくなんかないよなあ」
 違う、と益は喋りたかった。陽成が人殺しではないことは、彼が一番よく知っている。
「俺だって、本気で殺すつもりじゃなかったよ。まあ、後から何言っても仕方ないけどな」
 言葉が出ない。喉が、胸が締めつけられて、声が上手く出せない。頬を冷たい汗が伝った。
 さすがに益の様子がおかしいことに気づいたのだろう、陽成は手を放して益を解放した。途端、益は床に這いつくばり、げほげほと咳き込んだ。
「おい、何だよ……単なる冗談だってのに」
 バツが悪そうに陽成はそっぽを向く。益に答える余裕はなかった。そっちは悪ふざけのつもりだろうが、彼にしてみれば精神的な要因も相まって、かなりの苦痛となっていた。吐かないように堪えるので必死だった。
「しっかしまあ、この国も腐りきってるよな。俺が人を殺したと知っても、怯える奴ばっかで、責める奴は一人もいないんだぜ? 帝ってだけで全てが赦される。笑っちまうぜ」
 はは、と陽成は自嘲めいた乾いた笑いを漏らす。
「……からと言って……」
「ん?」
 押さえた口元からこぼれた呟きに、陽成が反応する。
「咎められないからと言って、それが是認されているわけでは……ないと思いますよ」
 急に言葉を発したためか、益はまたしてもむせてしまう。苦しげな呻きが響くなか、陽成はひどく瞠目してこちらを見ていた。いきなり固まってしまった彼に、のそのそと身体を起こした益はどうしたのだろうと瞬きを繰り返す。きょとんとした眼差しを注がれ、陽成は座ったまま軽く後ずさりした。頬をぴくぴく震わせ、腕をゆっくりと持ち上げ、真っ直ぐに益を指差して。
 
「まさかお前……益!?」
 
 化け物でも見るような目で名指しされ、益は状況が把握できなかった。聞き間違いだと思いたい。だって、何故この流れで正体が露見するのか、理解できない。でも、陽成の驚愕ぶりを見ればそれが紛れもない真実であることは明らかで。
「な、何をおっしゃるんですかいきなり――」
「だってお前、その台詞……」
 怯えを含んだ陽成の声にも、益は合点がいかなかった。本気で分かっていない様子の益に、陽成はしびれを切らせて怒鳴りつける。
「とぼけんじゃねえ! いま言ったじゃねえか! 叱られないからそれが許されてるわけじゃないって、確か、前にもそんなこと……!」
「……あ!」
 
 ――何も言われないのは、黙認されていることとは違うんです。
 
 さっと益は青ざめた。しまった。無意識に過去の己と同じことを口走ってしまったらしい。つい口にした言葉が、運悪く陽成の記憶を呼び覚まさせることになるとは。益の進言など鼻にもかけていないと思っていたのに、完全に油断していた。
「道理でどっかで見た気がすると思ったんだ。でもこんな若い坊主に覚えはないし、でも初対面にしちゃあ気安く話してくるし! だがなんでお前が生きて、こんなとこに……、っ!」
 恐慌状態に陥っていた陽成が、何かを察知したように顔を上げた。しばらくもと来た建物の方を睨みつけ、それから益の腕を無理やり引っ張り上げた。
「来い!」
「え……ちょ、ちょっと!」
 階に足をつんのめらせ、益はすぐに体勢を崩す。しかし陽成は構っていられないというようにずんずん先へと進む。その力は強く、下手すると腕が抜けそうだ。足と腕、双方の痛みに歯を食いしばりながら、益は引きずられるようにしてされるがままになっていた。
 
「おい相国! 話がある!」
 憤怒の形相の陽成が妻戸を蹴破らんばかりの勢いで戻ってくると、室内にいた女房達は何事かと一斉に振り返った。陽成は這いつくばったままの益を押しのけると、女房らの袿の裾を踏みつけながら迷わず基経のもとに向かう。邪魔だというように腕を払うと、もの凄い音を立てて几帳が倒れた。
「相国! これはどういうことだ!?」
 褥で仰臥していた基経の胸倉を掴み、問い詰める。
「院! おやめ下さいまし!」
「おい、どうしてここに益がいる!? こいつはなな、七年前にっ、死んだって!」
「どうか落ち着かれて……」
「はっきりと言ったじゃねえか! あれは嘘だったのか!? おま、おまえらは、俺を――」
「きちんと説明しますから、どうかここは――」
「何だよ! あのときはいつまで経っても出てこなかったくせに、今更――」
「お静かに!!」
 壮年の女性の声が、混乱する現場を鎮静化させた。尋常でない様子で基経に掴みかかる陽成と、それを抑えようとする益を交互に見やり、右京は唇を噛み締める。基経はもう、反応する力もないようだった。
「……人前では話しにくいこともございましょう。わたくしたちは退出致しますから、それからごゆるりとお話し下さいませ」
 そう言って几帳を部屋の隅に立て直すと、率先してその場を去っていく。事情が分からない他の者たちも、何かを感じ取ったようで余計なことは何一つ口に出さず、そさくさと出て行った。
 

《次》

 

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