慶平霜雪秘聞
 
 残された彼らは、三者三様の顔つきをしていた。激怒に顔を真っ赤にした陽成。焦燥に顔を蒼白にした益。基経に至っては、病魔と闘うのに精一杯なのか現状に気づいているのかも怪しい。
「……おい相国、分かるように教えろ。どうして益が生きている?」
「それは俺から説明します――」
 脂汗を浮かべて唸る基経を見るに見かねて、益は咄嗟に割って入った。ひどく気が重い役回りではあったが。
 話が進むごとに、陽成の表情がどんどん険しくなっていく。もとからつり上がり気味の目が更に鋭くなり、拳がわななき出す。
「……つまり、全て俺を退位に追い込むための策謀だったと。そういうことだな」
 否定できない益を尻目に陽成はさっと身を翻すと、再び基経に詰め寄った。
「ざけんなよ! 俺に帝位は重荷だと!? もっともらしい理由つけてんじゃねえ!」
「う、う……っ」
「院! 相国様はご病気なのですから――」
「益は黙ってろ! なら、どうして俺の跡に弟を据えなかった!? それが一番順当なのに、お前はそうしなかった!」
 基経の首を締め上げながら問いただす。ガクガクと前後に揺さぶられ、基経の顔からはみるみる生気が失われていく。
「相国が退位させたかったのは、俺だけじゃない!『母上の子』が邪魔だった、そうだろう!? 政治に口出しする母上の権力を削ぐために、お前は俺を脇に追いやったんだ!」
 陽成の絶叫に益はハッと息を呑む。だからこそ、あの不自然ともいえる光孝擁立に繋がっていくのだ。
 喘ぐばかりの基経を相手にしても始まらないと思ったのか、陽成は標的を変更した。唖然としたままの益の胸倉を掴む。
「益、お前もだ! どうして相国の味方についた!? 俺を裏切った!?」
「で、ですから……」
 呼吸が上手くできない。憤慨する陽成の顔を間近に、益は懸命に声を振り絞る。
「あのとき、言ったじゃないですか……政治をするのは相国様や皇太后様で、自分は関係ない、と……」
 禁中に密かに作られた厩の前。あのとき張られた頬の痛みが、時を経て再びはじけた気がした。冷え切った風の温度、視界を覆った砂塵、不安げに見つめる周囲の皆――今では全てが遠い。
「あの頃のあなたは、既にその御位に執着心を失って……むしろ、枷としか思っていなかった。……違いますか?」
「っ、だからって……じゃあ、俺がいつお前に死ねって言ったんだよ!?」
 血を吐くような叫びが耳をつんざく。陽成はどこか泣き出しそうな顔で、益を壁に叩きつけた。
「上皇になった方が気楽だ!? 確かにそうかも知れないが、それで俺に何が残った!? 果てにはあんな侍従風情に帝位を乗っ取られて! こんな、――こんな屈辱的な目に遭うくらいなら、あの頃の方がずっとマシだった!!」
「――」
 やっと、腑に落ちた。あれほどまでに陽成が宇多を厭っていた理由。宇多との相性がどうこうという話ではない。かつては自身の臣下であった彼を帝として崇め拝すということが、自尊心の高い陽成には耐えられなかったのだ。
 先ほどの、阿衡の紛議の話を思い出す。宇多の治世をよく思わない陽成にしてみれば、あの騒動はさぞ胸のすく出来事だったに違いない。ところが事件は終息し、世の中も次第に安定してきて。
(……あ)
 昨年の、陽成とその従者たちによる乱行の数々。思えばあれも、宇多の御世に対する反発からなされたものだったのか。丁度あの時期は、長らく引き籠っていた基経も参内を再開し、宮廷に安穏がもたらされた頃だ。こうして傍系だったはずの宇多が帝位にあることが当たり前となり、逆に陽成の存在感は日に日に薄くなってきて。そんな世間の流れに逆行するかのように、陽成は暴虐を繰り返した。
「俺のためとか言って勝手に消えやがって、結局お前は俺を見限ったんだろう!? 一生俺に仕えるって、言ってたくせに!」
 ずきりと胸に針を押しつけられた気分だった。まさかそのことで陽成から責められる日が来るなんて、考えもしなかった。
「い、院――」
「うるさい、言い訳なんかもう聞きたくない!!」
 益の台詞を遮り、怒りに拳を握り固め、感情任せに振り上げ、そして。
 刹那。衝撃に交じって、小さな呻き声がした。
「あ……」
 立ち尽くしたままの益は、じんじん痛む右手を他人のもののような気分で見ていた。足元では陽成が無様にも尻餅をつき、鼻血を滴らせながらひどく呆けた顔でこちらを見上げている。驚きのあまり反撃もできないようだ。
 やってしまった、と益は己の額に手を当てて天を仰ぐ。陽成に手を上げたのはいつ以来だろう。母に例の言葉を言われた頃か、益が二人の身分差を自覚した頃か――いや違う。
 あのときだ。もっと幼い頃、ちょっとした喧嘩が取っ組み合いにまで発展して。同い年とはいえ、春生まれの益と年末生まれの陽成にはだいぶ体格差があったから、手加減を知らずに怪我をさせてしまったのだった。
「……すす、む。おま……」
 それからは、幾ら短気で乱暴な陽成が相手でも、決して自分は手を出すまいと。
「……じゃあ」
 ゆっくりと腕を下におろし、益は顔ごと陽成に視線を戻す。
「あの日の翌朝。俺がいつものようにあなたを起こしに行ったら、あなたはどんな反応をしましたか?」
 自分でも信じられないくらい、妙に冷え冷えとした声だった。陽成にとってもそれは同じだったらしく、びっくりした様子で硬直している。
「仮に俺が無事だったとして、院の行いは何も変わらなかったのでは? 癇癪を起こし、気に入らなければ容赦なく殴り、まるでそれを当然のように!」
「すす、すすむ」
「だって院は、瀕死の俺を見捨てたじゃないですか。黙って立ち去ったじゃないですか! あんなことされて、どうしてまた戻ろうって思えます? あなたには俺が必要だとか、そんな都合のいい考えが出てくるわけないじゃないですか!!」
 感情の波が荒れ狂い、積年の想いが勢いよく噴き出す。少年だった益には、乳兄弟として生まれた使命感があった。陽成への愛情もあった。でも、それはあの霜月の昼下がりに見事に打ち砕かれた。完膚なきまでに踏みにじられた。
「……俺は、あなたが思っているほど物分かりもよくないし、傷つきだってするんです。言葉や態度で示してもらわなきゃ、伝わりません。どうして、そんな単純なことに気づけなかったんですか……」
 そして、室内を居心地の悪い沈黙が支配する。動くことのできない陽成に一言、帰りましょう、と呼びかける。ただでさえ迷惑をかけているのに、いつまでも病人の枕辺で口論するわけにはいかない。
 妻戸の外で待機していた右京は、出てきた二人の顔を見比べ、それから何も見なかったふりをして「観慶寺からお迎えがいらしております」と益に告げた。益は右京の案内に従い、よたよたと一歩ずつ歩を進める。放心状態で佇む陽成を振り返ることは、ついにしなかった。
 

《次》

 

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