慶平霜雪秘聞
 
 それからふた月ほど経った翌年の寛平三年正月十三日、基経は堀河第にて静かに息を引き取った。二日後には彼に正一位の位が追贈され、昭宣公の称号が与えられた。遺骨は宇治に葬られたとのことだ。
 益は観慶寺の境内の一角で、降りしきる雪を眺めていた。止むことなど知らぬと言わんばかりに舞い踊る天空からの使いは、まるで天に昇る基経への手向けのようだと思った。
「……深草の、野辺の桜し心あらば、今年ばかりは墨染に咲け、か……」
 つい、口の端から歌が漏れる。いま都で評判の哀傷歌だ。基経の葬送ののちに詠まれたという、彼の死を悼む歌。
 益の頭にあるのは、死の床で己の人生を振り返り、思い悩んでいた基経の姿だった。位人臣を極めながらも、自身が蹴散らしてきた者たちへの罪悪感に喘いでいた彼は、このような想いを歌われる人物だったのだと。そのことに、益も救われた気分でいる。
「……なあ、『すすむ』ってあんたか?」
 感傷に耽っていたところに突然頭上から声が降ってきて、益は頬杖をかくんと崩した。慌てて顔を上げると、見たことのない童が目の前でふんぞり返っている。
「……そうですけど」
「ここにいるっていう足の悪い坊さん探してんだけど、みんなあんたのことだろうって言うからさ。これ、預かってきた」
 目の前に突き出されたのは、折りたたまれた白い和紙だった。やけに高級な色艶をしている。益は訝しみながらもそれを手に取り、開いてみた。
「――」
 ずっと昔に見た覚えがある、へなへなと乱れた汚い字。
「早く返事、くれよな。返事もらってこなきゃお駄賃くれないって言うんだよ」
 不服そうに童は頬を膨らませる。益は急かされながらざっと目を通した。書簡の内容自体は簡潔なものだ。読み終わり、小さく息をつく。
「言づてをお願いできますか? お指図通りに参ります、と」
「駄目。きちんと文を書かせろって言われた」
 ……疑り深い。
 益は先ほどより深く溜息をつくと、しばし待つように言い残して室内に戻った。適当な紙にさらさらと書きつけ、お礼代わりの菓子と一緒に童に託す。彼は満面の笑みを浮かべて駆けていった。
 次の日、介添え役の下人に支えてもらいながら、益は指定された場所に向かった。雪はまだ降り続いていたが、昨日よりはかなり収まって視界も開けている。
 ここは観慶寺を西に行ったところにある、小さな祠だった。しばらく進んで鴨川を越えれば、もう都は目の前だ。一面に広がる銀世界に、益のまとう墨染はひどく目立つ。
 定刻より早めに着いた益は、この寒いなかを待たねばならないのかと少々辟易した、が。
 そのとき、ぶえっくしょん、という型通りのくしゃみが前方から響いてきた。
「……」
 足元に視線を移すと、うっすらと雪に覆われた、真新しい足跡が一組。
「……ありがとうございました。ここまでで大丈夫です、あとは一人で……」
「いつ頃お迎えに上がりましょう?」
「あ、えー……いいです。多分こちらで何とかしますから」
 下人の申し出を丁重に断り、先に帰らせる。彼の姿が完全に見えなくなってから、益は雪道を一歩ずつ踏み出した。
 都の区画から外れたここは、こんな雪の日ともなれば人通りもまばらで閑散としている。例の事件以来、極力外出を控えていた益だったが、たまにはこうして出歩いてみるのも悪くない。杖代わりの枝で足場を探りつつ、そんなことを考える。
 ようやく、目的地に着いた。烏帽子をかぶった青年が一人、背中を丸めて腰かけているのが見える。着用した直衣の重ねは葡萄染(えびぞめ)だ。基本的に四季通用で、季節を選ばないその色合いは、まことに風流事に無頓着な彼らしい。
「お待たせしました」
「……寒い」
 鼻の頭を真っ赤にしながら、陽成はこちらを不機嫌そうに見る。幼年時代そのままのふてくされように益は苦笑した。
 平然とした態度を心がけているようだが、身震いしたいのを我慢しているのか、陽成は直衣の袖をぎゅっと掴んでいる。かなり長いことここにいたらしいことは、肩に積もった雪の量が証明していた。
「お出でになる時間を間違えたんですか?」
「何の話だ?」
「……いえ」
 そっけない返答に、益はそれ以上何も訊かない。黙って隣に腰を下ろす。陽成はずず、と鼻をすすると、思い出したかのように呟いた。
「そういえば、相国が死んだってな」
「ええ……そうですね」
「……」
「……」
 続く言葉を待ってみたが、陽成の口は開きかけてはまた、ためらうようにすぼんでしまう。誤魔化すように目線を彷徨させている陽成に見切りをつけ、益は話題を変えた。
「今日は、騎馬ではないんですね」
 近くにそれらしい馬が見当たらないし、陽成の格好からしてもそういった雰囲気が感じられない。かといって、まさか徒歩で来たわけでもないだろうから、恐らくどこかに牛車を待たせているのだろう。
「……雪道は馬じゃ走りづらいし、二条院からここまで飛ばすには目立ちすぎる」
「あなたがそんなことを気にするようには思えませんけど」
 益は正直な感想を言ったつもりだったが、陽成はそれが気に食わなかったらしい。眉を寄せて横を向いてしまう。
 またしても無言の時が始まる。あえてそれを打開する必要性を感じなくなった益は、自分からは何も言わずに大人しく様子を見ることにした。手持ち無沙汰なまま、いまだ雪降り止まぬ空を見上げる。
 以前は、このように間がもたなくなることはなかった気がする。陽成が自分との距離を測りかねていることが、益には手に取るように分かった。もしかしたら、益自身も同じなのかも知れない。空白の期間は想像以上に重いらしい。
 

《次》

 

歴史創作に戻る

inserted by FC2 system