慶平霜雪秘聞
 
 また隣から盛大なくしゃみが上がる。沈黙の気まずさなど痛くも痒くもない益だが、これで陽成に体調を崩されでもしたらさすがに気が咎める。ので、この辺りで折れておく。
「風邪引きますよ」
「もう遅い」
「用件ってなんですか。何か、話したいことがあったんでしょう?」
 あの文に書いてあったのは、いついつにここで待つ、というそれだけのことだった。それでも、何かしらの用件があることくらいは察しがつく。
 一方、陽成はその台詞でようやく背中を押されたのか、意外にもすんなり言いたいことを吐き出した。
「……お前、これからどうするんだ?」
「これから?」
「相国が死んで、内々での庇護者がいなくなったわけだろ」
 院として公的には重んぜられる立場の陽成とは違い、今の益は出自もはっきりとしないただの僧侶だ。陽成の言わんとするところがおぼろげながらに分かってきた。しかし、基経がいなくなったからと言って今更益の生活が変わるわけではない。そう切り返そうとした矢先に。
「だからさ……俺のところに来いよ」
 まさかそんな台詞が来るとは思いも寄らなくて。
 一度言葉にしたことで楽になったのか、陽成はさも当然だと言わんばかりに続けた。
「お前のことを知っている奴はもう二条院にはいないし、こんな辺境よりも都に住んだ方が、お前にとってもいいだろう? 還俗だってさせてやるからさ、これでお前も不自由なんか――」
 あれこれ並べ立てていた陽成の動きがピタリと止まる。益の反応が芳しくないことに気づいたのだ。
 益は無表情でずっと正面を見続けていた。その先に何があるのかと、陽成もつられてそちらに視線を向けるが、大して目新しいものがあるわけではない。
「…………益?」
 軽く肩を揺さぶられ、そこでハッと益の身体がのけぞる。ようやく彼の瞳に正気の色が宿ったことに安堵し、陽成は強ばった頬の筋肉を緩めた。その彼の手を、益はやんわりと肩から外す。
「すみません、驚いてしまって。まさか、あなたがそんなことを言って下さるなんて、思ってもみなかったので」
「……何でだよ。乳兄弟に戻って来いっていうのは当たり前だろ?」
「院」
 益は柔らかな表情になると、陽成に微笑みを向けた。それは、益が久しく彼に見せなかった種類のもので。遠い昔に帰ったような感慨を覚えた陽成は、懐かしさと、あまりにも穏やかなその顔に対する一抹の不安を感じる。
 空模様は相変わらずだ。肌に張りついた雪の結晶が、体温でしずくに変わっていく。
「源益は、あなたの乳兄弟は、もうこの世にはいません」
 瞬間、雷に打たれたように固まる陽成に、益は更に続ける。
「ですから、お話をお受けすることは、できません」
「……何ふざけたこと言ってんだよ。お前益だろ?」
「いいえ、違います。ここにいるのはただの僧侶です」
 身に覚えがあるでしょう、と。「源益」は七年前、あなたの手で殺したじゃありませんか、と。きっと、堀河第で再会したあのときだったら、そうなじっていたに違いない。でも、あのときに感じた激情は、今の益からはすっかり消え去っていた。
「……やっぱりお前、あのときのこと根に持ってんだな。だからそんな――」
「だったら素直にそう言いますよ」
「嘘だ。だって、そうでもなきゃ……」
「主上」
 昔の呼び名を昔と同じ声で呼ばれ、陽成はぎくりと言葉に詰まる。彼の顔を瞳に映した益の真摯な表情は、身をていして陽成を諌めたあの日の光景を思い起こさせて。
「例え真意がどこにあったにせよ、俺はあなたを裏切りました。それは、先日あなたが言った通りです」
「だからもう、そのことは……」
「いいから聞いて下さい。それだけじゃない、俺の選択の結果、どれだけの人が人生を狂わせてしまったか。あの事件で生活が一変してしまったのは、何も俺やあなただけではありません」
 真面目に諭す益の意図に反して、陽成の目が疑わしげになる。
「……そいつらに償いでもするってか」
「そんな大それたことではありません。これは、俺なりのけじめなんです」
 俯きがちの陽成の肩を、優しくぽんと叩く。長時間屋外に晒された身体は、かなり冷えてしまっている。
「昨年、新たにお子が生まれたそうですね」
「……」
「あなたはもう大丈夫です。俺がいなくても、自分の道を歩んでいる」
「それでも……俺にはお前が、必要だ」
「ありがとうございます。できたら、その台詞はもっと早くに聞きたかった」
 切なげに笑いかけられ、陽成の顔がくしゃりと歪んだ。その表情を見られまいと、彼は片手で顔面を覆う。隠しきれなかった唇が、小刻みに震えていた。
 葡萄染に散った雪化粧を払ってやりながら、益はふと真顔になる。
「そういえば、先日はすみませんでしたね。我を忘れて、思わず殴りつけてしまいました」
「……戻ってくるなら許してやらんこともない」
「なら結構です」
 子供のような駄々に益はあっさり身を引く。ばかやろう、という低く掠れた文句が耳に届いた。
 

《次》

 

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