長元の雪
 
「もし、そのお話が本当なら……私は内裏を出て行きます。ひっそりと、穏やかに暮らしていきたいのです」
 
 近臣も女房も、誰一人として控えていない。こんな状況でこの人と二人きりになるなど、いつ以来だろう。そんなことを、後一条は思う。
 人払いの必要性を感じたことなど、ほとんどなかった。彼らの関係は良好だったし、政治向きのことは関白である頼通に任せている。誰かの耳を憚るような場面なんか、記憶を辿ったところですぐには思い浮かばない。
 つまり、これから話すのは、それほどまでに例外的な状況下でなければ話せない内容ということ。
 
 内大臣教通の大姫・生子の入内について、後一条は判断を決めかねていた。
 彼の後宮には中宮である威子一人しか迎えていない。いまだ皇嗣を得られていないことも手伝って、新たな妃を迎えることは自然なことのように思われた。威子の後ろ盾であった大殿・道長の薨去ののちは、公卿との紐帯を強める意味でも、いっそうその必要性が増している。
 男皇子が欲しいという気持ちは、本心だ。
 母が喜ぶ。近臣や女房たちも喜ぶ。東宮にだけ男王子がいるという、不安定な状態から脱却できる。
 ……中宮が重責から解放される。
 当初、教通から生子入内を打診されたとき、脳裏をよぎったのはそんなことだった。
 だが、当の威子の反応は、思いも寄らぬものだった。
「もし、そのお話が本当なら――」
 もちろん、笑顔で受け入れてくれるなどとは考えていなかったが、里に籠もると言い出すのは想定外だった。慌てたのは後一条だけではなく、そもそもの発端である教通も同様である。彼とて、威子を追い出すつもりは毛頭ないだろうし、そのような形になれば外聞も悪い。そういったわけで、一度は沙汰止みに終わった話だった。
 本来ならば、後宮に威子一人という状況は維持されるはずのないことである。それを許したのは、教通の兄である関白頼通が、生子の入内を快く思っていなかったことによる。彼には入内させるに相応しい娘がおらず、中宮の兄・帝の叔父という立場が支えだった。生子入内、そして皇子誕生ということになれば、教通に大きく出し抜かれることになる。
 そんな兄弟間の緊張に介入できる人物は多くない。入内の噂こそ絶えなかったが、目立った動きはなく、数年の時を経た。
 そしてその間も、威子が男皇子を産むことはなかった。
 二人きりでお会いしたい。母・上東門院彰子から申し出を受けたのは、そんな状況でのことだった。
 
 長元七年。道長の薨去から七年の月日が経っていた。今上帝には女宮が二人。一品宮章子と、賀茂斎院馨子である。一方で、後一条の同母弟である東宮敦良には、男宮が一人と女宮が二人。
 上東門院の御在所となっている弘徽殿は静まり返っていた。外から時折、蝉の鳴き声が聞こえてくるくらいである。
 後一条の渡御のしばらくのちに人払いがなされた。女房たちが退出する間、どうにも落ち着かない気持ちで衣ずれの音に耳を澄ませていたが、それも程なくして聞こえなくなった。
 蒸し暑いはずなのに、不思議とそれを感じないのは、緊張のせいだろうか。檜扇を広げた女院は、背をぴんと伸ばして座しているが、その表情はよく分からない。
「……母上は、私が皇子を得たとして、心からお喜びになられますか」
 沈黙を破ったのは後一条だった。口に出してから、その台詞が思いのほか冷ややかに響いたことに驚く。
 虚を突かれたのは女院も同じだったのだろうか。数拍の静寂ののち、落ち着いた言葉が返る。
「もちろんです。何故、そのようなことを仰せに?」
 分からぬふりをしているわけではなさそうだった。先ほどの台詞を少し後悔しながら、後一条は答える。
「東宮の王子(みこ)に、帝位を継がせたいとは思われないのですか」
 女院が可愛がっていた末妹・嬉子が産んだ子。嬉子はその出産がもとで亡くなり、王子は女院に引き取られて養育されている。
「その気持ちがないとは申しません。でも、主上に御子がお生まれになれば、その皇子が次の東宮になるのが当然ですし、わたくしもそれを望みます」
 後一条はじっと押し黙っていた。彼の考えを読み取ったのか、女院は続ける。
「……そのときは、主上の皇子を東宮に。そして、その次には王子を、と考えるとは思います。ただ、それが叶わぬこともあるでしょう」
 その声に切なげな色が垣間見えた。それは、先帝即位の折、我が子である敦成――後一条を差し置いてまで敦康の立坊を望み、果たせなかったときを思い出したためか。それとも、やがて東宮が、妃である禎子や、今後迎えるであろう藤氏の姫との間に儲けるかも知れぬ男王子を想定しての言葉だろうか。とりわけ、禎子は現在懐妊中だ。
「それは、そのときになってみなくては分からぬことです」
 時局は移り変わる。それは、簡単に覆せるものではない。女院といえども、それは同じということを、彼女は理解している。
「主上」
 俯いていた女院が、再び正面を見据える。
「わたくしには、朝廷を安寧に導く役割がございます。一条の院の中宮として。当代の帝の母后となり、院号まで賜った身として」
 加えて彼女は、亡き道長の娘であり、関白の姉であり、内大臣の姉でもある。口にはしないが、紛れもない事実だ。
 そして、関白の姉であるだけなら、いや、そうでなくとも、内大臣より関白の意向を優先すべきと考えているならば――現状維持を問題としていないなら、彼女はいま、ここにはいない。
 

《次》

 

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