長元の雪
 
「内大臣の姫の件、進められては如何ですか」
「父上は、どういうお気持ちで母上の入内を決めたと思いますか?」
 はっきりと、空気が凍った。後一条自身、血を吐くような思いだ。
 弟の子を可愛がる母を恨んでいるわけではない。正妃を押し退けてまで入内「させられ」、苦労したであろう日々を引き合いに出して傷つけたいわけでもない。それでも、言及せずにはいられなかった。
 後一条が生まれる前の出来事である。じかに見聞きしているわけではない。それでも、知っている。父が正妃――定子を寵愛していたこと。それは母が入内してからも変わらなかったこと。そして、母はそれを追い落とす形で中宮となり、一帝二后の先例を開いたこと。
「……一の人の娘を后に据えることは、まつりごとを円滑に進めるために必要なことです。あの方は、それをご存知でした」
 それはあくまで「判断の理由」であり「気持ち」ではない。だが、後一条はそこには深入りしなかった。
「……内大臣は『一の人』ではありません」
「そうです。でも、その大姫が、入内するにもっとも相応しい姫であるということはお分かりでしょう」
 冷静に切り返す女院。それから、やや訝しげな表情を見せた。
「そもそも、あのときと今は、ことの性質が全く異なります。比べたところで意味などありません」
「大姫が入内したら、内大臣はその立后を望むのではないですか」
 女院は目を瞠る。そのようなことを言われるとは思ってもみなかったというように。
「まさか、……いえ。おっしゃる通り、内大臣はそうかも知れません。心の内にとどめておくか、はっきり要求してくるかは分かりませんが」
 女院は賢明だった。今はその気配がないからといって、一笑に付するような真似はしない。でも、と彼女は続ける。
「そのようなことは、わたくしが、関白が許しません。まして、関白は中宮の後ろ見なのですから」
「……もし、関白に万一のことがあれば。入内した大姫が男皇子を産んだら。それでも母上は、同じことを仰せになりますか?」
 沈黙が訪れる。是と即答することは簡単だし、きっと感情ではそちらを選択するだろう。女院にとって威子は、同腹の妹である。彼女が九つ下の甥である後一条に入内するにあたり、ひどく葛藤していたことも知っている。そんな妹を、すき好んで憂き目に遭わせようか。
 返事をためらわせているのは彼女の理性だろう。情を切り捨てても優先させねばならないことが、時にはある。先ほどの女院の言葉通りだ。
「主上は、中宮が、前の皇后宮と同じような状況になることを危惧されているのですね」
 前の皇后宮――定子は、皇后に移るという形で一条帝の第一后妃という立場を退いた。関白であった父を喪い、頼みの綱の兄弟は失脚したがために。
 そして、道長亡き後の威子とて、そのような道を辿らないとも限らないのだ。
「主上。これは、母としてのお願いです」
 彰子は扇をぱたりと閉じた。それを脇息の上に置き、まっすぐこちらを見据える。
「主上の、ご自身の望みを、お聞かせ下さい」
 ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「わたくしや、中宮のことは、関係ありません。主上は、どうされたいのですか」
「僕は――」
 
 ――ひっそりと、穏やかに暮らしていきたいのです。
 
 ぐっと後一条の拳が固くなる。瞑目し、迷いを振り払うかのようにかぶりを振った。
「……男皇子を欲しいと思う気持ちは、本心です。でも、そのために中宮を失っても良いとは思えません。かといって、無理に後宮に縛りつけたいのかといえば、そうではないのです」
 後一条の望みと言っても、それは周囲の人々抜きには考えられない。彼は、一人で生きているのではないのだから。
 威子を後宮にとどめることができたとしても、生子が参内するようになれば彼女は苦しむだけだ。それは、後一条の望むところではない。
「僕は、今の暮らしを犠牲にしてまで、大姫の入内を進めたくはありません。……ただでさえ、二の宮を斎院に送る羽目になったのです。これ以上は、失いたくない」
 僕だって同じなんだよ、と。心の中で威子に呼びかける。生子には悪いが、彼女の入内や、その腹からの男皇子の誕生が、後一条に平安をもたらすとは限らないのだ。そこまで皇嗣を貪欲に求める気にはなれないし、威子たちを切り捨てる勇気もなかった。
「もしかしたら、今後、中宮に男皇子ができるかも知れません。……そうでなくとも、僕の後には東宮がいます。東宮には王子がいます。それで、充分ではありませんか?」
 後一条の顔つきは穏やかだった。
「……分かりました。わたくしも、主上のご意向を尊重したく思います」
 彰子は静かに頷いた。手を伸ばし、傍らの扇を取る。
「今は、それで良いでしょう。あくまで、次に状況が変わるまでは」
「それは、承知してます」
 この判断は一時的なものにすぎないのだと念押しされ、後一条は首肯する。女院は、ふっと表情を和ませた。
「内大臣には、わたくしからも言い含めておきますから」
「……お願いします」
 彼には申し訳ないことをする。年頃は違えど、後一条とて娘を持つ父親である。娘を最上の相手に娶せたいという気持ちは、理解できる。
「母上。……中宮のことを、お怒りですか?」
 去り際に、思い切って尋ねてみる。その様子が、母親に叱られる前の幼子のようで、女院はくすりと笑った。
「立場に相応しくない振る舞いをした、とは思いますが、怒ってはおりません」
 気持ちは分からなくもありませんし、と呟く。
「余計なことかも知れませんけれど」
 彼女はそのまま退室しようとする息子を見上げた。
「……いざというときは、手放してやるのも愛情の形かも知れませんよ。そこは、きちんとお考えなさいませ」
 後一条は答えなかった。一礼して、今度こそ女院の御在所を後にする。彼女の扇がパチンと音を立てると、簀子に控えていた女房たちが御簾を上げてくれた。
 

《次》

 

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