寛仁の月
 
 今上のもとへの入内が決定した、と父親から告げられたとき、彼女の心に湧き起こったのは喜びではなく、かといって不安や嫌悪でもなかった。
 自身でも驚くほどその心中は静かで、しかし決して感情が欠けているわけではなくて。
 ああ、やはり、と。
 婚姻先を聞かされた日、何よりもまず藤原威子の心を占めたのは、ひどく空虚な諦念感情だった。
 
 予想は、していた。いつかはこうなると。
 威子は時の最高権力者・藤原道長の正妻腹の女で、なおかつ二人の姉もそれぞれ先々帝・先帝のもとに入内している。次は自分の番。その意識は、数年前から胸の内で渦巻いていた。
 ただ、その相手は――。
 幼い頃からよく見知っているかの子供の姿を、威子は思い描いた。今上帝・敦成親王十一歳。のちに後一条帝と呼ばれることになる少年だ。彼女より九歳年下であり、また彼は威子の同母姉・彰子所生の皇子。つまり彼らは叔母と甥の関係に当たる。
 後一条のことが気に入らないとか、そういう問題ではない。そもそも威子にとって彼は、婚姻の相手として考えられる存在ではないのだ。彼が生まれた頃から見知っている、実の甥であり年の離れた弟のような――そんな少年を、夫として見られるわけがない。
 本当は分かっていたのに、いつも目を逸らして、考えないようにしていた。その結果、何の覚悟も定まらないままに父からあの言葉を告げられたのだ。
 
 寛仁二年三月七日。威子、入内当日――。
 前日から降り続いた雨は、今はだいぶ収まっていた。その薄暗い曇天は、まるで威子の心を表しているようで、しかし彼女はその空のように、心のままに涙を流すことはできなかった。
 釈然としない。でも抵抗する気力もない。もやもやとした気持ちを抱えたまま、しかしそれを晴らす行動に出ることもなく、ぼんやりと物思いにふけっている。
「三の姫様、ご覧下さい。本日のお衣装ですよ」
「きっとお似合いでしょうね」
 唐櫃から衣を引っ張り出し、年若い女房たちが楽しげに振り返った。今日の参内のために仕立てられた、色鮮やかな装束だ。威子は一拍遅れて、ええ、と僅かに頷いた。張り合いのない主人の反応に、女房らはやりづらそうに顔を見合わせる。
 何とかして気を引き立たせようと頑張ってくれる彼女たちには申し訳ないが、今の威子にはその努力に応えるだけの余裕はなかった。無理に笑おうとすればそれだけ、両頬が不自然に引きつるのを感じる。何気ないふりをして傍らにあった扇を開き、そっと顔を隠した。するりと幾筋かの髪が肩から滑り落ちる。
「……ちょっと、一人にしてもらえる? 緊張して、落ち着かないの」
 ふっと女房たちが戸惑うような間があった。気詰まりなのは、彼女たちもおそらく同じだ。それでもこの場を去ることを躊躇っているような様子に、威子は駄目押しをする。
「今日は、準備で色々忙しいでしょう。人手が足りてないといけないから、見てきてくれる?」
 その言葉に、ようやく女房たちは動き出した。羽織っている袿を引き寄せ、威子に一礼してから退出する。
 さらさらと衣が擦れる音に、威子は無意識のうちに耳を澄ませていた。微かに漏れ聞こえる雨音に混じって、人の気配がだんだんと遠退いていく。それが完全に聞こえなくなり、威子はようやく溜息をつくことができた。
 緊張しているから。白々しい台詞だと、自分でも思った。それは完全な嘘ではないけど、その原因は、よくある恋物語のような、まだ見ぬ婿君を想っての甘酸っぱいときめきでは決してない。
 思うに任せぬ我が身を振り返り、ふと威子の心に二人の姉の顔が浮かんだ。彰子と妍子。彼女たちは、どうだったのだろう。長姉の彰子は夫の寵妃を追い落とすような形で、そして妍子は自身と同世代の子までいる男性に嫁ぐことになった。
 相手が幾人もの妻子を抱えていることなんて珍しくないし、夫婦の年齢が離れているのもありふれたことだ。それでも姉たちもまた、このように鬱屈した思いを抱えていたのだろうか。ならば、少なくとも現時点では対抗相手がいない自分はましなのかも知れない。そんな考えにふけろうとして、途中で思いとどまる。こんなことをしていても、意味がない。彼女たちの真意は本人にしか分からないし、己の立場と比較しても虚しいだけだ。
 どうにか気を紛らわせようと、手近にあった文箱を開け、真新しい料紙を取り出してみる。今月に入ってからたびたび届くようになった、後一条からの文だ。開いてみると、まだ幼さが漂う文字列が目に入る。書き手本人の年齢を考えれば不思議でもなんでもないのだが、改めて実感すると急にその現実を目の前に突きつけられた気分になり、威子は深く息を吐き出した。
 もう片づけてしまおうかと一瞬考えたが、せっかくなので読み返してみることにする。思えば、手紙を受け取ったときは後一条の使者の応対でばたばたしていたり、早く返事をとせっつかれたりで、ゆっくりとこれを読んだことはなかったのだ。
「……」
 この世に生を受けたそのときから左大臣、つまり朝堂の最高権力者の姫君だった威子は、他の男性からの恋文など読んだことはない。もし文付けするような公達がいたとしても、父か乳母に握り潰されていたのだろう。だから比べようがないのだが、それにしても後一条からの文は、どうも背伸びをしたような、物慣れない感じが拭いきれなかった。
 ゆっくり丁寧に書きすぎたせいで、濃く滲んでしまった墨。不必要に角ばった文字。普段の話し言葉とは全く違う、畏まった文面。あの少年が必死の思いでこれを書いたのだと思うと、その様子が目に浮かぶようで。微笑ましくなると同時に、心のどこかで引っかかりを覚える。
 彼が威子の入内を無邪気に喜んでくれるのは、確かに救いだ。でも、きっと当人は、本当の意味でこの婚姻が何を意味するのかまでは理解していない。それが分かってしまうこともあって、威子は素直に安堵することができないのだ。
 顔を上げると、既に雨が止んでいることに気づいた。雲の切れ間から注がれる淡い陽光を、威子は何となく裏切られた気分で眺めていた。
 

《次》

 

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