寛仁の月
 
 日暮れが近づくごとに室内の薄暗さが増し、それと共に威子の心も重くなる。勅使が到着したらしく、先ほどから寝殿の方が騒がしい。女房が持ってきた後一条からの書簡に目を通すも、二、三度同じ行で視線をさ迷わせた末に読むことを諦める。無言で料紙を畳み、元の文箱にしまい直す威子を咎める者はいなかった。用意させた硯箱も、結局未使用のまま押しやる。
「――ま、三の姫様」
 聞き慣れた女房の声に、威子ははっと顔を上げた。いけない、と彼女は慌ててそちらに顔を向け、努めて穏やかな微笑を返す。
「どうしたの?」
「あの……」
 躊躇いを隠せずに視線をさ迷わせる女房を見かねてか、別の女房が口を開いた。
「……殿が、そろそろ出立の準備をと」
 ――とうとう、来てしまった。
 その言葉を聞いた威子はびくりと肩を震わせた。唇をつぐみ、俯いたまましばらく目を閉じて――やがて小さく、「そう」とだけ呟いた。
 
 二条第を出発し、今内裏である一条院に向かう。威子のために用意された直廬は、今日という晴れの日に相応しく華々しい室礼だった。彼女のために数多くの官人が投入され、参入を盛大に彩っている。しかし、威子の本心とは真逆のその様子に、彼女は独り置いてけぼりにされているように感じた。まるで、自分だけが透明な存在になってしまったような。
 やがて後一条から参上の要請があり、威子は硬い表情を張りつかせたまま立ち上がった。何となく解放された気分になったが、それはほんのひとときの幻であったと知ることになる。
 後一条の待つ北対の母屋に入室すると、中にいた女房たちが一斉にこちらへと意識を向けたのが分かった。
 周囲から注がれる、好奇の眼差し。しんと静まり返っているのに、威子は落ち着かなかった。新たに入内する妃はどんなものか。姉宮お二人はお美しいとの噂だが、この姫君はどうか。何でも帝より九歳も年上という話だが――そんな忍び声が聞こえてくるようで、威子はさっと顔を赤らめた。言いようのない羞恥が全身を駆け巡る。
 女房たちが控えるなか、威子は無言で歩みを進めた。一歩進むごとに、足がずしりと重くなる。
 早くこの場から逃れたい。何事もなさげに、平然と御帳台の中に入ってしまえばいい。そう思うのに、威子の歩調は思考とは正反対に緩慢化し、ついに彼女は、その場に立ち止まってしまった。
 一気に訝しげな視線が突き刺さり、威子はますます俯いてしまう。照れとか、緊張とか、そんなものじゃない。ただ、このいびつな婚姻を、他の人はどう見ているのか。そんなことばかりが脳内を占めて、絶えず渦巻いて。
(――嫌)
 威子はとうとう、その場に座り込んでしまった。こんな気持ちで、入内なんかしたくない。一度も父に訴えかけられなかった台詞が、今になって脳裏を占める。もう、何もかも遅すぎるのに。
 そして、周囲もまた威子に、苦悩に浸る時間を与えてはくれなかった。女房の集団から、すっと抜け出した影があった。今上の乳母である、近江三位だ。
「まあまあ、今になってどうなさったのです」
 三位は苛立たしげに、威子を御帳台の側へと押しやった。威子はされるがままになるが、それでも中に入ることは憚られて、しばらく逡巡する。すると。
「!」
 小さく、袖を引かれた。驚いて視線を落とすと、いつの間にか真新しい冠を被った少年が、威子のすぐ隣まで来ていた。威子の入内する相手――今上の帝である敦成親王だ。
 なかなか威子がやってくる気配がないため、待ちかねて御帳台から出てきたのだろう。俯いているため、その表情は見えなかったが、威子の袖を掴むその力は、たいそう頼りなかった。
(――あ)
 そこで威子は、初めて気づいた。気まずい思いをしているのは、この少年も同じだということに。自分のことばかり考えていた自分が恥ずかしくなり、彼女はぎゅっと手を握り締め、一つ頷いた。立ち上がり、後一条と共に寝所に入る。
 周囲から、あからさまに安堵した気配が伝わった。威子が後一条と一緒に横になると、まもなく、威子の母親である倫子がやって来て、衾覆いの役を務める。やがて衣擦れの音も遠退き、宿直の者を除いては皆、去っていったようだった。
 しばらくの間の後、威子は重苦しい息を吐き出した。自分でも気づかぬ間に、呼吸を止めていたらしい。
 長い舞台演技を終えた気分だった。実際、それはある意味で間違ってはいないのだけれど。これは儀式だ。自分は藤原北家嫡流の息女として、自分に求められた役割をこなしただけ。
 そこで威子は、傍らに横たわる「共演者」の存在を思い出した。ふと気になり、暗がりの中に向けて話しかけた。
「……主上?」
 閨に入ってすぐのことであるし、まさか眠りについてはいまいと思ったが、それでも一応、声を潜める。ややあって、聞き慣れた子供の声が返ってきた。
「尚侍?」
 同じく身体を横たえていた後一条が起き上がったのが気配で分かった。慌てて威子も、同じように上体を起こす。
「お眠くはございませんか? ご無理はなさらずに……」
「大丈夫だよ。……皆、心配性なんだから」
 周囲の過保護な対応への不満が滲んでおり、威子は僅かに表情を和ませた。そうは言っても、後一条はこの正月に元服したばかり。大人の仲間入りを果たしたとは言っても、まだたった十一歳の子供なのだ。周りの扱いとて、そう変わるものでもない。
 

《次》

 

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