万寿の花
 
 退出の日が、刻一刻と迫ってくる。それにつれて増してくる華やいだ空気に、どこか固くひんやりとしたものが日に日に色濃くなってきていることを、威子は誰よりも肌で感じていた。
 それは言ってみれば当然の流れであり、不自然なことではないのだけれど。
 彼女は腹帯を締めた己の腹に手を添え、祈るように目を閉じた。
(――今度こそ、男皇子を)
 
 彼女の一度目の出産は、決して歓迎されたものではなかった。
 今上帝唯一の后妃という立場であり、皆人の期待を一身に背負いながらも、威子が産み落としたのは皇女だった。その時の周囲の冷たい反応を、威子は生涯忘れられないだろう。
 ――ようやく孕んだと思ったら。
 幾人もの、失望の声を聞いた。流石に表立って責めるものはいなかったが、胸の奥底の感情はどうしても伝わってしまう。
 入内して数年。長い間妊娠の兆しすら見えず、今まで授かったのは皇女一人。
 威子の脳裏に、ある女性の顔が浮かんだ。東宮妃として入内していた亡き妹・嬉子の姿だ。
 姉に先立ち懐妊した彼女は、周囲の期待に応え、自らの命と引き換えに男宮を儲けた。
 命を賭して己の役割を果たした妹。それに比べ、自分は――。不甲斐なさに苛まれ、そんな中懐妊が発覚。しかし、産まれてきたのは望まれぬ皇女で。周囲の態度は冷淡だった。
 もう、あの時の繰り返しはしたくない。何としてでも、皇嗣となりえる男皇子を。
 ――そのためには、この命をなげうっても構わないから。
 誰にも告げていないこの決意。威子はそこまで思い詰めていた。
 
「この間懐妊が分かったと思ったら、もう退出か。早いなあ」
 今上帝――後の世に後一条と呼ばれることとなる青年はそう苦笑すると、更に言葉を続けた。
「でも、もうすぐ家族が増えると思うと楽しみだよ。ここも賑やかになるね」
 嬉しそうに微笑みかける後一条だったが、ふと訝しげな顔をした。不思議そうに、威子の顔を覗き込む。
「……中宮?」
 先程から何の反応も見せない妻を、流石に不審に思ったらしい。呼びかけても返事をするどころか、視線を動かそうとすらしない。顔こそこちらを向いてはいるものの、その視界に後一条は入っていない。威子は彼を通り越し、ぼんやりとどこか遠くを眺めているようだった。
 後一条はますます眉を寄せ、威子の肩をぽんと叩く。
「中宮?」
「――え?」
 軽く身体を揺さぶられ、威子はようやく正気に返った。彼女の瞳に己の顔が映ったことを確認し、後一条はほっと息をつく。
 一方の威子は、自分が上の空だったことすら自覚していなかった。不思議そうな顔をして、恐る恐る尋ねる。
「あの……どうかなさいましたか?」
「それはこっちが訊きたいよ。さっきからぼうっとして」
 憮然として言う後一条に、威子は慌てて頭を下げた。
「す、すみません……」
「別に、謝るようなことでもないけど」
 むしろ後一条の表情は不安げだ。再び正面から、威子の顔を覗き込む。
「ところで、本当に大丈夫? まさか体調が思わしくないとか……」
「い、いいえ。そのようなことは……」
 心配をかけまいと威子は焦った。無理矢理唇の端に笑みを載せ、微笑んでみせる。尚も表情を変えない夫に、申し訳ない気持ちになった。
 幼い頃から見知っている、九歳年下の甥。その彼にまで気を遣わせてしまうのは、心苦しかった。
 努めて普段通りに振る舞おうと、威子は話題を変えた。
「そ、それより……先程ですけど、何と仰ったのですか?」
 思わず声が上ずってしまったのが相手にも悟られてしまったことは、表情の変化で見て取れた。一瞬呆れたように息をつくも、後一条は話を蒸し返そうとはしなかった。素直に威子の問いに答える。
「子供が生まれたら、また賑やかになるねって言ったんだよ。楽しみだよね」
「え、ええ……」
 同意はするものの、一心に喜べない自分がいた。そのことに嫌気が差し、そっと目を伏せる。
 新しい命の誕生は喜ばしいし、待ち遠しく思う気持ちは本物だ。しかし、一方で身がすくんでしまうのも、嘘ではない。
 生まれてくるのが男児ならばいい。でも、もしそうではなかったら?
(あの時の繰り返しは、もう嫌――)
 またしても口をつぐんでしまう。強がりでもいいから、笑顔で何事もなさそうに返事をしなければ。そうは思っても、それができるだけの気力は生憎、威子には備わっていなかった。
 その気持ちが伝染したのか、後一条も僅かに表情を変えた。気まずそうに視線をさ迷わせ、何か言いたげな様子で頬をかく。その動作に気付き、威子は怪訝に思った。
(私を気遣って下さっているのかしら……)
 言いたくても言えないこと。それはおそらく、産まれてくる赤子の性別のことではないか。威子の怯えを悟り、その話題を避けたのだろうか。
 思い出されるのは、二年前――威子が第一皇女・章子内親王を出産したときのことだ。望まれない姫宮の誕生に、口さがない女房があからさまに落胆した様子を見せた際、後一条はそれをたしなめたという。
 後にその話を聞かされたとき、威子の心には小さな罪悪感が生まれた。庇ってくれた、その優しさは嬉しい。しかしこのような気持ちは、彼女が男児を産んでさえいれば味わうこともなかっただろう。
 その彼に報いるためにも。そうは思っても、産まれてくる子の性別は決められない。ただ祈ることしかできない自分が歯がゆかった。
 

《次》

 

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