万寿の花
 
 俯いたままの威子とは対照的に、迷いを拭い去ったように後一条が顔を上げる。
「中宮」
 再び、呼びかけられた。その声で、深く沈みそうになっていた心が引き戻される。威子が顔を上げると、後一条と目が合った。そっと微笑みかけられる。
「何でもいいから、話してよ」
「……え?」
 唐突にそう言われ、威子は困惑した。だって、と後一条は困ったように笑う。
「ずっと黙ったままじゃない。産み月も近くて色々思うところもあるんだろうけど、だったらそれを話して」
 自然な笑顔が、じんわりと心にしみた。威子は目を瞬かせ、ようやくその顔に、小さく笑みが浮かぶ。
 ふと思ったことが、そのまま口をついて出た。
「――主上は、変わりましたね……」
 予想外のその言葉に、後一条は目を丸くした。怪訝そうな顔をしてしばらく威子を見つめ、頬をかく。
「そうかな? 僕には分からないけど」
 照れたように笑うのは、威子の言葉が肯定的な意味だったことを分かっているからだ。威子は穏やかに頷き、そっと想いを馳せる。
(本当に……)
 彼は変わった。
 威子の脳裏に蘇る光景がある。十年前の春、目の前にいる夫の下に、入内した夜のことだ。
 ――尚侍、どうしたの?
 そう囁いたのは、元服したばかりの少年だった、まだ十一歳の後一条だ。九歳年下の甥との婚姻に向き合えないままその日を迎え、夫となる相手の前でさえ憂いを払拭できなかった威子を、不安げに見上げていた。
 当の本人に入内が嫌だったなどと言えるばずもなく、何でもないと誤魔化すことを選んだ威子。その態度に傷付き、泣きそうに顔を歪めた後一条。その滴をこぼすのを堪え、つらそうな顔をしながらも彼が発したのは、「言いたくないなら訊かない」という一言だった。
 必死に絞り出した言葉。深く入り込むことで、自分も相手も傷付くことを恐れての台詞だった。
 しかし、今の彼はそのようなことは言わない。傷を負うことを恐れるよりも、痛みを分け合うことを欲した後一条。その、包み込むような温かさが、とても心地よい。
 ――それに引き換え。
「私は、あの時のままです……」
 ひどく寂しそうに、威子は呟いた。
 あの日、誓ったのに。傷付けてしまったことを悔やみ、二度とこんな顔はさせまいと心に決めた。添い遂げる相手として見られないのならば、これまで通り叔母甥のままでいい。無理して変わる必要はないから、と。
 これから一生、この人を支えていこうと決めたのに。
 月日は流れ、威子自身思いもしなかったことだが二人の間には夫婦の情愛が芽生え、こうして子もなした。
 しかし、彼女の心は入内当日のまま、止まってしまっている。
 相変わらず本心を隠すことを選び、一人で抱え込んでしまう。その結果、守るべき相手であるはずの後一条に、逆に気遣われて。そのことが情けなかった。
 怪訝そうに見つめてくる後一条に、威子は今にも崩れそうな笑顔を向けた。泣きそうな顔になっていることは、自覚していた。
「主上」
 男皇子が欲しいですか、とは訊けない。そう尋ねたところで、この心優しい青年は、決して頷きはしないから。
 だから、代わりにこう宣言した。
「私、頑張って男の子を産みますから」
 思ったよりもずっと楽に、口から滑り落ちる。一度出してしまえば、後はするすると流れるように、勝手に言葉が続いた。
「立派な子を産んでみせますから。だから、楽しみに待っていて下さい」
 それは、何の根拠もない言葉で。でも、言わずにいられなかった。夫への約束であり、己への叱咤でもある、何よりも痛切な願い。
 後一条はひどく驚いたようだった。頷こうとしないのは、唐突にそのようなことを言われ、困惑したからだろう。構わず威子は続けた。祈るように、ぎゅっと目を閉じる。
「この命に代えてでも、産んでみせますから……!」
 びくりと後一条の肩が震えた。彼の指が伸び、威子の手を捕らえる。
 予想外のひんやりとした感触に、威子は目を丸くした。咄嗟に見上げると、沈痛な面持ちの後一条がいる。
 そこで威子は初めて気付いた。彼が頷かないのは、驚愕のためではなかったことに。
 後一条はゆっくり、しかしはっきりと首を横に振った。
「いいよ」
 え、と尋ね返す前に、身体を引き寄せられた。耳元で、消え入りそうな声が囁く。
「そんなことは、しなくていいから」
 後一条の瞳は、切なげに揺れていた。驚いて思わず腕の中から離れ、その拘束する力がひどく弱々しかったことを知る。
 彼の顔を見て、何と返せばいいのか躊躇する威子に、ぎこちない笑みを向けた。その表情に気付かされる。
 きっと、先程の自分も同じ顔をしていたということ。――そして、その笑顔がどんなにか哀しいものかということに。
「……ごめん。ただ、怖くてさ」
 己の顔を見て表情を歪める妻に、後一条は小さく謝罪した。俯き、独り言のように呟く。
「……東宮のような想いは、したくないんだ」
「え?」
 突然出てきた名前に、意図を図りかねて当惑する。彼は続けた。
「尚侍が亡くなったときの、東宮の悲嘆の様子は聞いているだろう? あのときは本当に、見てられなかったよ……」
 寵愛していた妃に先立たれた弟。嬉子は男皇子を遺してくれたけれど、それは慰めにはなっても、ぽっかりと空いてしまった空虚な胸の内を埋めることにはならなかった。
 そのつらさは、味わった本人にしか分からないだろう。しかし、その嘆きを間近で見ていれば、察しはつく。
「僕のために頑張ろうとしてくれるのは嬉しいけど、かといって中宮に犠牲になれなんて言うと思う? まして、その皇子と引き換えに中宮を喪うだなんて考えられない」
 そこまで言うと、後一条はすっと顔を引き締め、威子を見つめた。しっかりとその瞳を見据え、口を開く。
「だから、命に代えてなんて言わないで。僕は男でも女でもどっちでもいい。中宮が無事ならそれでいいから」
 

《次》

 

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