誰をあはれと思ふらむ
 
 後ろ髪を引かれる思いで父帝の見舞いを終えた親仁の耳を、女房の囁きがかすめた。
 
「内大臣様が……」
 
 親仁に向けられた言葉ではないが、つい声の出所に視線を向ける。立ち話をする女房は声を落としており、会話の内容までは分からない。だが、途切れ途切れに聞こえてくる単語に加えて、彼女たちの眉が忌々しそうにひそめられたのを認め、親仁は大体の事情を察した。
 ――梅壺女御の立后嘆願に参じているのだ。
 内大臣教通は、娘である生子の立后を望んでいた。それこそ、彼女が入内して女御となった五年前からずっと。
 今上・後朱雀には皇后禎子と中宮嫄子、二人の后がいた。だが、関白頼通の養女であった嫄子は、生子の入内前に崩じており、それ以降中宮は空位となっている。藤原氏の后がいない以上、我が娘を新たな中宮に、という教通の主張は、分からないでもない。
 だが、今は後朱雀の病篤く、譲位さえ検討されている非常時だ。昨年から病臥しておりひどく消耗している父帝を、つい先ほど間近で見た身としては、何もこのような時にまで、と苦々しい気持ちになる。教通の心境としては、譲位や崩御のことがあっては生子の立后が永久に叶わなくなってしまう、という焦燥があるのだろうが、生きるか死ぬかという状態の帝を前に息女の立后の話など、浅ましいというほかない。先ほどの女房たちの表情もそれを物語っていた。
 不快感と、軽い怒りの感情を覚えた親仁だったが、次の瞬間にはその件は頭から取り払われる。彼にはそのようなことに考えを及ぼしているいとまはない。帝の第一皇子として。――現在の東宮として。
 
    *    *    *
 
 それから二十余年ののち。
「どうか、女御に后の位を授けてやって下さいませ」
 深々と頭を下げるその人の言葉を、親仁――即位して後冷泉となった彼は、朦朧とした意識の中で聞いていた。
 後冷泉の枕辺でこうべを垂れているのは、本日付で関白に就任した教通である。新関白様が参内されました、との知らせを受け、病を押して目通りを許した後冷泉だったが、教通が口にしたのは形ばかりの挨拶と、後冷泉の女御となっている娘・歓子の立后の要求だった。
「関白――」
 その場に控えている女房たちが、一様に非難がましい視線を教通に向ける一方で、後冷泉の口からは素直な戸惑いが漏れた。その声はひどくかすれている。
 生子のときと異なり、教通は歓子の立后については再三言い立ててくることはしなかった。何故ならば、後冷泉の後宮は中宮章子と皇后寛子が圧倒的な権勢を誇っており、なおかつどちらも健在だからだ。歓子の入内がなされて数年の、后位に空きがあった時期はともかく、こうなってしまっては教通の娘の出る幕はない。……そのはずだった。
 状況を変えたのは、しばらく空席となっていた関白の地位に、ここに来てようやく教通が就いたことだった。兄・頼通の後塵を拝し続けた彼が、七十を過ぎてついに手に入れた関白の座。喜びもひとしおであろうが、教通はこれによって強力な武器を得たのである。
「女御はこれで、一の人の娘となりました。主上にとりましては、唯一の皇子を産み奉った妃でもあります。立后の資格は、充分かと」
 教通の眼光は、老いてなお鋭い。この機を逃してはならないという焦燥が、よりその気迫を増幅させる。
 一の人の娘ではないから。皇子を産んだ身ではないから。生子立后を画策していた教通が、散々煮え湯を飲まされた言葉だ。……もっとも、歓子が産んだ皇子はその日のうちに夭逝してしまっているけれども。
 ともあれ、彼の主張通り、今の歓子は后となるに相応しい立場となった。だがそれは、后位に空きがあればの話だ。それは教通とて分かっているはずである。それでもなお、ようやく射し込んできた希望にすがらないわけにはいかないのか。
 後冷泉の病状が悪化するに従い、東宮尊仁の即位が現実味を帯びてきた。尊仁に娘を差し出していない教通にとって、後冷泉の在世中に立后を成し遂げられなければ、彼が「后の父」となる日は来ないのだ。
 歓子は既に五十近い。長く里に籠居しており、後冷泉との仲はもはや絶えている。仮にここで后になったところで、彼女の腹に皇子が宿っている可能性など、万が一にもない。後朱雀の寵愛を一身にこうむり、彼の崩御時に三十二だった生子とは、何もかもが異なるというのに、何が教通をここまで駆り立てるのだろうか。
 後冷泉は、荒い息を吐き出した。大袈裟な溜息にも似たそれは、まるで教通への嫌味のように響いたが、そのような配慮ができる状態ではなかった。ゆっくりと呼吸を整え、それから口を開く。
 

《次》

 

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