喪失の果てに
 
波打ち際に、男が両腕を投げ出し、倒れている。その男――虚空津日高(そらつひこ)は、小さく呻き声を上げ、のろのろと瞼を持ち上げた。
(――こ……こは……?)
最初目覚めた時、彼は自分が何故、このような場所で倒れているのか分からなかった。重い上体を起こし、ゆっくりと辺りを見渡す。
時刻は既に黄昏時。普段は空の蒼を映し出す海原が、この時ばかりは夕暮れ色だ――。
突如、虚空津日高はがばっと起き上がった。思い出したのだ。
「――豊玉毘売!」
無我夢中で海へと駆け寄り、濡れるのも構わず両手で波を掻き分け、潜ろうとする。大きく息を吸い込んだその時、前方から声をかけられた。
「もうお止め下さい、虚空津日高様」
びくり、と身体が震えた。己が追い求める、かの女性がそこにいると思った。急速に甘い期待が膨れ上がり、それを否定する冷静な感情とでせめぎ合う。
一つ息を吸い込み、胸を高鳴らせて顔を上げる。
逆光のため、顔はよく見えなかった。しかし、その声に、その姿に虚空津日高は覚えがある。
綿津見(わたつみ)の宮にいた頃、毎日のように顔を合わせていた――彼が愛して止まない妻・豊玉毘売の妹・玉依毘売だった。
 
湧き上がる失望の色を、虚空津日高は隠すことが出来なかった。本当は分かっていたはずなのに。
先ほど響いた声は、妻のものに似てはいたけれど、決して彼女のものではなかった。
玉依毘売は軽く眉尻を下げ、躊躇いつつも口を開く。
「……お久しぶりです、虚空津日高様」
「玉依、毘売……」
自分でも驚くほど、沈んだ声だった。途端に申し訳なくなり、無理矢理笑顔を作る。
「すまない、君を疎んじたわけじゃないんだ。ただ……」
分かっています、と玉依毘売は目を伏せる。彼の言わんとしたことを察したのだ。しかし、再び顔を上げた彼女は打って変わり、真剣な表情をしていた。
「虚空津日高様――もう、諦めて下さい。姉さまは二度と、あなたの元へは現れません」
その言葉に、虚空津日高は目を見開いた。だが驚愕したのは一瞬で、すぐに悲痛な表情をして肩を落とす。予想はしていたが、最後まで希望は捨てたくなかった。けれど。
「豊玉毘売は……やはり私を憎んでいるのか……」
いいえ、と小さな否定が返る。
「憎んでは、おりません。いっそ憎めたら、嫌えたらと苦しんでいますが……」
「玉依毘売……」
虚空津日高は、目の前の女性を見た。その瞳は彼の嘆きを表すかのように、不安定な光を帯びている。
「綿津見の宮に向かおうと、何度も試みた。だが、どうしても辿り着けないんだ。いっそ死んでも構わないと、幾らやっても……いつの間にかここに戻ってしまう」
海中で意識を失い、このまま死ぬのかと幾度覚悟したことか。彼女に逢えぬならそれでもいいと、海原に身を預けても。必ず、彼は生き長らえてしまう。
「海は……綿津見一族の味方です。その息女である姉様が拒めば、海は決してあなたに向かって開いてはくれません」
「ならば……何故、私を殺してくれない? 私を敵とみなすなら、何故……」
その問いかけに、玉依毘売は唇を噛み締める。
「姉様は、未だに虚空津日高様を想っています。幾ら恨んだとて、どうしても憎むことが出来ない。あなたを見捨てることが、出来ないから……」
 
いっそ憎みきれたら楽なのに。
でも忘れられない。忘れることなど出来ない。
こんなにもあなたが愛しい。
だから、生きていて。
幸せに、生き抜いて――。
 
虚空津日高の行動は素早かった。再び前方へと歩み出し、波の動きに逆らって進もうとする。その衣装は、あっという間に水浸しだ。
玉依毘売は、その両肩を掴んでそれ以上の前進を押し止めようとした。
「虚空津日高様!無駄です、――もう止めて下さい!」
「放してくれ!私は……豊玉毘売に逢わねばならない。逢って言いたいことがあるんだ!」
その台詞に、玉依毘売は逆上した。
「なら……何故、姉様との約束を破ったのですか!? 決して産屋を覗くなと、固く戒めたのに何故……!」
そう怒鳴ると、玉依毘売はぎゅっと拳を握り締めた。その目からは、今にも涙が零れ落ちそうだ。
「私たち綿津見の者は、高天原や地上の神々とは全く別の種族なんです。幾ら同じように見せても、それは所詮、偽りの姿でしかない……本性は醜い、獣なんです!それを知られることがどんなに恥ずかしいか、お分かりですか!?」
玉依毘売は、更に続ける。
「姉様は、一番正体を知られたくない方に、その姿を見られたんです。姉様は逢いたくないんじゃない、逢えないんです。合わせる顔が、ないんです……」
本来ならば、結ばれるべきではなかったのかも知れない。だが、出逢ってしまった。どうしようもなく惹かれ合って、そして。
玉依毘売は歯を食いしばる。責めるつもりではなかった。虚空津日高を憎んでも、いない。だって、真っ先に彼を憎み、詰るべき本人がそれを望んでいないから。
代わりに彼女は、視線で虚空津日高に問いかける。何故、あのような真似をしたのか。その、答えを。
 

《次》

 

歴史創作に戻る

inserted by FC2 system