雨止むその後
 
 神代の昔。高志(こし)の地にある化け物がいた。
 その瞳は鬼灯のように紅く、一つの身体に頭と尾が八つずつ。そして身体には苔や檜、杉が生えており、大きさは幾つもの谷や峰にまたがるほど巨大である。その腹部は真紅の血で染め上げられているという。
 その化け物の名は、八俣遠呂智(やまたのおろち)という――。
 

「何ということだ……」
 足名椎(あしなづち)はそう呟くと、肩を落とした。とうとうこの時期が来てしまったのだ。傍に寄り添う彼の妻・手名椎(てなづち)も沈痛な面持ちだ。ぎゅっと握り締める足名椎の手を、包み込む少女がいた。
「――父君様」
 彼女の名は、櫛名田比売(くしなだひめ)。彼ら夫婦の間に生まれた――今となっては唯一の娘である。彼女はぎこちなく、精一杯の微笑みを浮かべて、両親に語りかけた。
「そのように、哀しそうな顔をしないで下さい」
 残された時は、あと僅かなのだから。
 櫛名田比売は、皆まで言わずに唇を閉ざした。口に出すと、あの恐ろしい影がすぐそこに来てしまうようで。
 娘の真意を悟り、足名椎は口をつぐんだ。それでも、悲嘆に暮れた表情だけはどうにもならなかった。
 
 ガサッ
 
 急に響いた物音に、一同は身を硬くした。ちがう、あれではない。あれが来るのは、もっと夜遅く。このような昼間ではないし、もっと激しい唸り声を上げるはずだ。
 そう自分に言い聞かせるが、それでももしかしてという思いは身体中を駆け巡って。胸の鼓動が速まるのを自覚しつつ最初に顔を上げたのは、櫛名田比売だった。
 そこに立っていたのは――櫛名田比売より一つ二つ、年上だろうか。髪を角髪で束ね、腰には剣を佩いている。その装束は彼女たちのものとは少し形が違う。しかし、衣装も彼自身の身体も傷だらけ。
 その少年は無言で、表情の見えない顔を上げた。
 
 途端に、身体から力が抜けていった。思っていた以上に緊張していたらしい。へなへなと崩れそうになる娘を、両親が慌てて支えた。意外な訪問者に足名椎は目を丸くする。
「あ、あなたは……?」
 彼らがいたのは奥深い山の、川の上流で、人通りは少ない。しかも、目の前にいる少年は服装こそ薄汚れているものの、どこか高貴な顔をしていた。
 その少年は黙って、手にしていた箸を投げてよこした。それを受け取った足名椎は軽く目を見張る。
「これは……」
「――歩いていたら、これが流れてきた。きっと上流に人がいるのだと思って、川に沿って登ってきたんだ」
 櫛名田比売は座り込んだまま、少年を見上げた。俯き加減の表情は前髪に隠れてよく見えない。しかし、その奥に潜む瞳が、どこか暗鬱とした光を宿している気がして、櫛名田比売はびくりと肩を震わせた。
「――お前たちの名は」
 やがて少年が紡いだ言の葉は、口調こそ疑問形だったものの、有無を言わさぬ強さがあった。
(――この人)
 櫛名田比売はようやく気付いた。眼前に佇む少年の正体に。
 ――天津神。
 櫛名田比売たちのような、地上に住まう神々を総称して国津神という。彼らたちとは対極に位置するのが、天上界である高天原にいる、もしくは高天原から地上に降(くだ)った神々。すなわち、天津神だ。
 天津神と国津神の間には絶対的な神威の差がある。だから、自ずと分かってしまうのだ。この少年もまた、天津神であると。
「わ、私は、大山津見神(おおやまつみのかみ)が子、足名椎と申します。こちらは妻の手名椎。そして……娘の、櫛名田比売にございます」
 彼らを代表して足名椎が、少年の問いに答えた。明らかに畏縮している。妻子を指し示す手が微かに震えている。手名椎も夫にならい、居住まいを正した。
 

《次》

 

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