雨止むその後
 
 少年はその言葉に一つ頷くと、再び口を開いた。
「お前たちは何故、そのように泣いている」
 抑揚に欠けた声。彼らを案じてのものではなく、己の疑問の答えを探しているためだからだろう。
 その質問に、足名椎ははっと表情を強張らせた。口に出すのを躊躇うようにしばらく視線をさ迷わせ、しかし言葉を濁すことはしなかった。
「……私たち夫婦には元々、八人の娘がいたのです……」
 どこにでもあるような家庭。贅沢な暮らしではなかったが、いつも家族一緒に。笑って、時には泣いて、それでも皆で支え合って。ささやかな、しかし何事にも代えられない、幸せ。
 それを、あの夜奪われたのだ。
 ――高志からやって来た、あのおぞましい化け物に。
 
『――あなただけは、幸せに』
 
 そう自分に囁いた、姉たち。その声を、櫛名田比売は一生忘れない。忘れられない。
「八年前の、ある晩のことでした。突然あの化け物――八俣遠呂智が現れたのです。奴の目的は分かっていました。好物である若い娘を狙って来たのです」
 足名椎はそこまで言うと、一旦言葉を切った。
「あの時は……一番上の娘が、犠牲になりました。自分が行けば助かる、と自ら外へ出て、そのまま……。しかし、それだけでは済まなかった。奴はそれから、毎年この時期になるとここへやってくるようになりました。そのたびに次女、三女、四女……と生贄になることを受け入れ、八俣遠呂智に喰われたのです。今ではもう、この末の娘……櫛名田比売しか残っていない。しかし、この子ももうすぐ遠呂智に喰われてしまうのです!」
 ああ、と足名椎は頭を抱え、滂沱の涙を流した。手名椎はとうに声も出せず、櫛名田比売は強く唇を噛んでいる。その拳は小さく震えていた。
(姉君様……)
 妹の無事を祈り、己が命を捧げた姉たち。しかし、その心遣いも虚しくこの日は来てしまった。
 少年はしばらく黙っていたが、おもむろに口を開いた。
「――条件によっては、退治してやらないこともない」
 その言葉に、親子三人は一斉に顔を上げた。期待に満ちた目で足名椎は少年に詰め寄る。
「ま、まことでございますか!?……して、条件とは……?」
 その疑問を口にするごとに、彼の声音は段々しぼんで行く。何を要求されるのか。彼らの家は裕福ではないし、目の前の天津神が何を望むのか、想像も出来なかった。
 少年の答えは明確だった。無言で櫛名田比売を指差す。
「――この娘を貰い受けること。それが条件だ」
 貰い受ける。つまり妻として櫛名田比売を差し出せということだ。予想外の言葉に夫婦はぽかんと口を開ける。申し訳なさそうに足名椎は少年に言った。
「そ、それは畏れ多いことにございますが……私どもは、あなた様の御名も存じ上げておりません」
 幾ら天津神といえど、見ず知らずの者においそれと娘を嫁がせるわけには行かない。手名椎も眉を寄せている。
「俺は……天照大御神の弟、須佐之男だ。今、高天原から降ったところだ」
「天照様の……!?」
 足名椎の反応は顕著だった。さっと須佐之男に平伏する彼を見て、手名椎はそれにならう。櫛名田比売もわけが分からぬままにさっと頭を下げた。
「それはもう、勿体ないことにございます……!承知致しました、娘を差し上げましょう」
 ただひたすらにそう言い続ける足名椎。その顔が真っ青になっていることに気付いたのは、櫛名田比売だけだった。
 
 ――建速須佐之男命。この国を作りし神・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の息子であり、高天原を統治する最高神・天照大御神は姉に当たる。須佐之男自身も父神から海原の統治を命ぜられたが、それを放棄して高天原へ昇り――追放された。
「須佐之男様は……かの地で散々に悪行を働いたのだ。それが元で罰せられ、高天原への出入りを禁じられて……この地にいらっしゃったらしい」
 そう、足名椎は声を潜めた。その言葉に手名椎は顔を蒼白にした。
「あなた、そうと知っていながら何故この子を差し上げるなどと……」
「仕方なかろう!あの場で断れば比売は遠呂智に喰われる……いや、それよりも須佐之男様本人のお怒りに触れ、我ら三人皆殺しだったかも知れん!」
 須佐之男が彼らの前に現れた時のボロボロの格好。あれは、高天原で罰を受けたからだったのだ。
 足名椎は娘に取りすがった。
「櫛名田比売よ……許しておくれ。須佐之男様がお前をどう扱うかは分からんが……少なくとも遠呂智のように、とって喰うようなことはせんだろう。どうか……」
 こうするしかなかったのだ、と。父の涙ながらの言葉に、櫛名田比売は頷いた。
「私は大丈夫です。心配しないで、父君様……母君様」
 口ではそう言って微笑みかけるが、目を閉じると浮かんでくるのはあの、暗い瞳。おまけに彼の素性を知った今、櫛名田比売の心を占めるのは不安と恐れしかなかった。
 

《次》

 

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