雨止むその後
 
 遠呂智を退治するにあたり、須佐之男は足名椎・手名椎夫婦に幾つかのことを命じた。
 一つは、強い酒を用意すること。
 一つは、垣をめぐらせて、八つの入り口を作ること。
 更にその門ごとに仮棚を設け、器を乗せ、中には先ほどの酒を入れさせた。
「――これで準備は完了だ。危険だから、お前たちは家の奥にでも隠れていろ」
「は、はい……」
 足名椎と手名椎は怯えきり、須佐之男の言葉通り室内に入ろうとした。しかし、櫛名田比売の足は動かない。気付いた手名椎が慌てて手招きする。
「櫛名田比売、お前も早く……」
「須佐之男様。お願いがあります」
 いささか緊張した面持ちで、しかしその声に迷いは微塵もなかった。須佐之男が振り向いたのを認めると、櫛名田比売は更に続けた。
「――私も連れて行って下さい」
「櫛名田比売!?」
 声を張り上げたのは手名椎だった。
 お前、何を言うんだい。遠呂智はお前を狙っているんだ。もしものことがあれば……」
 櫛名田比売は黙って首を振る。彼女とて怖くないわけはないのだ。しかし、彼女にはある考えがあった。
「私は、戦いのお邪魔にならぬよう姿を変えます。そうすれば大丈夫。……お聞き届け頂けますか」
 最後の問いは須佐之男に向けたものだった。彼は無言で櫛名田比売の視線を受け止め、やがて逸らした。
「――好きにしろ」
 理由を問わないのは、櫛名田比売の心を見透かしているからなのか、単に興味がないだけか。それを知っているのは、須佐之男本人だけだ。
 須佐之男は、櫛名田比売に向かって手を伸べた。
「――何の姿になりたい」
 櫛名田比売は戸惑ったが、それは一瞬のことだった。つまり、彼女が望む姿に変化させてくれるということだ。
「では、爪櫛(つまぐし)に」
 初めから心に決めていた、その名を口に出す。櫛には呪具としての霊力が備わっており、この大きさならば、須佐之男の邪魔にもならない。彼もそのことを察したのだろう、一つ頷く。櫛名田比売はその手を取った。するとみるみるうちにその身体が光を発し、やがて彼女の姿が見えなくなる頃には、須佐之男の手に一つの爪櫛が収まっていた。
 須佐之男はそれを片方の角髪に差し込み、足名椎たちに目配せする。慌てて彼らが家に戻ると、須佐之男はきびすを返し、先ほど作らせた垣の傍に身を潜めた。
 山の向こうからは暗雲が垂れ込み、雷鳴が轟いてきた。
 

《次》

 

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