雨止むその後
 
 ついに雨が降ってきた。次第に近付いてくる雷に、櫛名田比売は身をすくませる。
 あの日もこうだった。雷雲と共に現れた化け物。姉たちの悲鳴。遠呂智は毎年決まって豪雨の日にやってくる。
 櫛名田比売は須佐之男に視線を送ったが、この位置では彼の表情まで見えない。
(……)
 櫛名田比売が同行を申し出たのには、理由があった。父から聞いたあの噂。
『かの地で散々に悪行を――』
 そんな人が、何故遠呂智退治を引き受けたのか。何故見返りに櫛名田比売を求めたのか。それが知りたい。
 もしかしたらあの話は父の勘違いで、本当は彼は無実なのではないか。櫛名田比売はちらりとそう考えたが、須佐之男のあの瞳がそれを打ち消してしまう。だから。
(きっと、分かるはず。一緒にいれば――)
 ――雄叫びが、轟いた。山の向こうから、遠呂智が乙女を欲している。
 しかし須佐之男は動かない。剣を抜こうとすらせず、じっと息を殺している。
 雨はますます激しさを増し、視界が悪い。雲が空一面を覆い隠し、辺りに広がるのはどこまでも遠い闇ばかり。とその時――目の前に二つの、紅い光が現れた。それでも須佐之男の様子に変化は見られない。
 二つの光が四つになり、やがて六つ、八つと増えていく。それはゆっくり、引き寄せられるように足名椎たちに作らせた垣に近付いて行き、それぞれ二つずつ別々の入り口に吸い込まれていった。
(遠呂智の、目――)
 あの鬼灯のような。間違いない、遠呂智はすぐ近くまで来ている。
 酒の匂いに惹かれたらしい。しばらく待っていると、遠呂智が地面に臥せて動きを止めた。寝入ったようだ。
 チン、と涼しげな金属音が響いた。須佐之男が無言で太刀――十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いたのだ。
 須佐之男の反応は素早かった。瞬時に遠呂智の頭の一つに駆け寄ると、躊躇いなくその首を斬り落とす。それに気付いた他の頭が須佐之男に襲いかかるが、彼の敵ではない。酒をたらふく飲んだため、どこか動きが緩慢なのだ。それでも常人ならばついていけないだろう。天性の才を宿した、須佐之男だからこそ。
 須佐之男は無言で遠呂智を切り刻んでいった。既にその刃も身体も返り血にまみれている。しかし彼は全く気に留めることなく、未だ蠢く遠呂智の身体に剣を突き刺した。
「――?」
 ふと違和感を覚え、須佐之男は動きを止めた。十拳剣に視線を移す。その切っ先からも、遠呂智の血がしたたり落ちる。
 須佐之男は刃に目を近付ける。よく見ると、剣の刃が欠けていた。不審に思ったらしく、先ほど斬り付けた遠呂智の尾を掴み取る。勢いよくそれを裂くと、中から真新しい剣が出てきた。
 唇を閉ざしたまま、それを抜き取る須佐之男。不思議なことに、遠呂智の体内にあったはずの剣はよどみなく光り輝いている。
 その剣が、遠呂智の生命の源だったのだろうか。剣を失った遠呂智は苦しげな断末魔の叫びを発し、幾度も痙攣を繰り返した後、やがて絶命した。
 須佐之男は最後まで表情を変えなかった。今もなお、動かなくなった遠呂智を冷たく見下ろしている。
 櫛名田比売は声も出なかった。近くを流れる川は遠呂智の血液で真紅に染まり、辺りには死臭が満ちている。須佐之男は遠呂智の骸の傍らに立ち尽くす。雨は夜明けと共におさまり、東の空は次第に明るさを増している。同時にあらわになるのは、血濡れの衣装と肌。
 櫛名田比売は確かに、遠呂智ではなく須佐之男に対して怯えていた。
 

《次》

 

歴史創作に戻る

inserted by FC2 system