雨止むその後
 
 外が静まり返り、もう安全だと思ったのだろう。足名椎と手名椎が家の奥から出てきた。遠呂智が倒されたことを知った彼らは涙を浮かべ、須佐之男に頭を下げている。しかし、櫛名田比売は礼を言うことが出来なかった。
「も、申し訳ありません……まだ恐怖心が残っているようで……」
 顔面を蒼白にして口元を抑える娘に、足名椎は苦笑いした。だから、遠呂智など見なければ良かったのに、と言うように。違う、と思ったが、櫛名田比売は何も言えなかった。
 それから話し合って、彼らは住居を移すこととした。須佐之男と櫛名田比売のための宮を置くに相応しい地へと移動するのだ。櫛名田比売は浮かない顔のままだ。
 そしてその晩。一行はとりあえず場所を落ち着かせ、休息を取ることにした。薄暗い部屋で櫛名田比売は、一人正座している。両親は別室で既に夢の中だ。
 足音が、近付いてきた。それに気付き、櫛名田比売はますます身を硬くする。戸を開いたのは、予想した通り須佐之男だった。
 二人はあれから、一言も口をきいていなかった。櫛名田比売は俯いたままだし、須佐之男も自ら話しかけるような真似はしない。その彼が一瞬の間の後、口を開いた。
「――櫛名田比売」
 びくり、と身体が震えた。心臓の音がやけにうるさい。櫛名田比売は躊躇いつつ、返事をする。
「……はい」
 ぎゅっと拳を握り締める。顔を上げてはいけない。怯えているのが知られてしまう。その手に、須佐之男の指がかすかに触れた。
「!」
 櫛名田比売は、思わず身じろぎしてその手を避けた。驚いて須佐之男を見ると、彼も目を見張っている。
 二人の視線が、交差した。櫛名田比売の瞳に滲む恐れを正確に読み取った須佐之男は、僅かに表情を歪ませ立ち上がる。そのまま無言で部屋を出て行った。
 櫛名田比売はしばらく呆然とへたり込んでいたが、はっと我に返り立ち上がった。須佐之男を追いかけようと室外に飛び出す。
「須佐之男様!」
 傷つけてしまったと思った。彼女は態度で須佐之男を拒絶した。
 須佐之男は歩いていたため、追い付くことは容易だった。だが、彼は振り向こうとしない。
「――あ、の……」
「――お前も」
 すかさず遮られる。
「お前も、俺を厭うのか」
 苦々しげに吐き捨てる。お前も、と言われた理由がはかりきれず、櫛名田比売は立ちすくんだ。
「お前、も……?」
「父上も、姉上もそうだ。誰も彼もが俺を受け入れない!」
 夜闇に響き渡る絶叫。櫛名田比売は恐る恐る須佐之男に問いかける。
「――待って下さい。何があったのですか?父上とは……」
「――お前は、どこまで知っている」
 須佐之男はようやく櫛名田比売を見た。彼女は、こんなにも感情が入り混じった瞳を初めて知った。怒りと、悲しみと、寂しさと――。
「……その、多くは存じません。父君のお怒りを買って高天原に昇られたことと、その地で……狼藉を働いて追放されたことだけで……」
 途切れ途切れに言った後、櫛名田比売は顔を上げた。
「その……高天原でのことは、本当なのですか?こちらの勘違いとか……」
「――その話は真実だ。確かに俺は罪を犯した」
 その言葉に、櫛名田比売は目を見開く。父の話は正しかったのだ。思わず、疑問が口から漏れた。
「……何故、そのようなことを……?」
 須佐之男は櫛名田比売を睨みつける。しかし彼女は耐えた。今度は、逃げたくない。
 視線を正面から受け止められ、須佐之男は驚いたようだった。ふっと僅かに眼光を和らげる。
「……父上を怒らせたのは、黄泉に下りたいと俺が言い出したからだ」
「黄泉の国へ……?」
 彼女の疑問を察したのだろう。須佐之男は続けた。
「黄泉には、俺の母親がいる」
「!」
 伊邪那美命(いざなみのみこと)のことだ。火の神を産んだ折に大火傷を負い、死亡している。夫である伊邪那岐は妻恋しさに一度黄泉へ下ったが、再会した彼女は既に以前の彼女ではなかった。彼らはその場で決別し、夫婦としての関係を絶っている。その伊邪那美に会いに行こうというのだ、父が怒るのも道理である。
「――父上に追い出された後、黄泉へ向かう前に姉上に挨拶に行こうと思ったんだ。だが姉上は、俺が高天原を侵略するつもりだと勘違いして、武装して現れた」
 父に忌まれ、姉に疑われ。須佐之男の中で鬱屈していた感情は頂点に達した。その鬱憤を晴らそうと乱行を繰り返し――罰として地上へと堕とされた。
 

《次》

 

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