州羽社由緒記
 
 空高き天上から出雲の地に、一筋のいかずちが轟いた。
 それから始まった激しい雷雨もこの時点では、出雲から遠く離れたここ、科野(しなの)に於いては全く関係ないことであった。

(――雨?)
 鼻先を何かがかすめる感触に、八坂は咄嗟に空を見上げた。先ほどまでは雲一つ見当たらなかったはずだが、いつの間にか西の方にどす黒い雨雲が立ち込めている。
 と思ったら、今度は確かな雨粒が八坂の頬を直撃した。瞬く間に本降りとなり、周囲は木々が水滴をはじく音に支配される。
 ちょっと雨宿りをした程度では治まりそうにないと察した八坂は、急ぎ足で社を目指した。幸い、ここからはさほど離れていない。
 再び視線を上に向けると、遠くに閃光が走るのが見えた。遅れて、ゴロゴロという危機感をあおる音が耳に届く。
(やだ、早く帰らなくちゃ)
 予想外に雨脚が迅速なことに気づき、八坂は更に足早になる。ただの夕立だとは思うが、油断はできない。
 直後、八坂の背後に、もはや火柱と形容して差し支えがないほどの雷が突き刺さった。
「きゃあっ!」
 大地を揺るがす雷鳴に思わず耳を塞ぎ、その場に立ち尽くす。今のはかなり近い。危機回避より恐怖が先立ってしまい、戦慄したまま動けない。
 これは普通の雨ではないと、八坂の理性が警鐘を鳴らしていた。具体的には説明できないが、いつもとは違う、何か恐ろしい、大いなる力が働いているような――。
 雨の冷たさのせいだけではない震えに、己の身体を掻き抱くことしかできず、八坂は雨水に打たれるに身を任せていた。途切れ途切れの荒い吐息が、まるで他人のもののような感覚で耳に入ってくる。

 ――ドサドサドサッ

 激しい雨音の中に異質な物音を捉え、八坂は思わず振り返った。続いて、幾羽もの鳥が、バサバサと木の隙間から飛び立つのを目の当たりにする。
(……?)
 不思議に思った八坂は、ぐっと目を凝らした。何かが落ちてきたような音。それも、ごく近くにだ。
 相変わらずの雨は止む気配なく、八坂の身体を冷やし続けている。しばらく佇んだのち、彼女は意を決して一歩、足を踏み出した。
 叩きつけるような雨が髪を、頬を伝い、衣服に吸い込まれていく。行く手を阻む鬱蒼とした草木を軽く押し退け、八坂は先ほどの音がした地点を覗き込んだ。
「!」
 男が一人、倒れていた。枝葉に傷つけられ、ボロボロになった肌や衣装は、彼がついさっき墜落してきたことを、これでもかというほど主張している。
「……うっ……」
「っ、大丈夫ですか!?」
 雨音に掻き消され気味のうめき声が、足元に広がる光景を理解できずに静止していた八坂の思考を呼び戻す。彼女は慌てて駆け寄り、男の肩を揺さぶった。
「ほら、掴まって……立てます?」
 やや前のめりの身体の下に潜り込むようにして支える。途端に男の体重が思い切りのしかかってきて、八坂はつんのめりそうになった。性別の差に加え、一般の男性と比べても大柄な男の体躯は、八坂一人で引き受けるには大きすぎる。
 それでも必死で、彼女は雨風をしのげる場所を目指した。ぬかるみに足を取られぬよう、ゆっくり、ふらふらとひたすら歩いた。
 あれほど激しかった雷は、いつしか遠くに過ぎ去っていた。

 どれくらい時間が経ったことだろう。懸命に力を振り絞って男を屋内に運び入れ、八坂は息を切らせたまま自室へと向かった。とりあえず、びしょ濡れの身体を拭くものが必要だ。
 慣れない重労働のせいで、ひどく消耗してしまった。滑り落ちる雨粒が床に染みを作るのを気に留める余裕もない。ぽたり、ぽたりと足元に小さな円が生まれていく。
 雨雲が空を覆い尽しているため、室内は普段よりずっと薄暗い。慎重に灯りをともし、ありったけの手拭いを抱えて母屋に向かう。
「すみません、遅くなりました――」
 さぞ寒い思いをしているだろうと慌てて飛び込むが、男は板の間に転がったまま、何の反応も示さなかった。暗闇の中、小さく呼吸音が聞こえる。眠ってしまったのだろうか。
 無理に起こすこともためらわれ、八坂はその身体にそっと寝具をかけてやった。静かにその場を離れ、自室に退散する。
 髪を拭き、手早く身支度を済ませようと水浸しの衣を脱ぐ。乾かすためにそれを広げ――八坂はようやく気づいた。
「――え……?」
 赤黒い汚れが、衣装に付着している。それも、決して微量ではない。
 ざっと血の気が引いた。急いで灯台近くに寄り、震える手で透かしてみる。小さな灯りのもとで、それはより鮮明に現れた。間違いない。血痕だ。
 血液は衣服の背中部分に集中していた。そこが先ほどまで、あの男と密着していた箇所だと思い至ると同時に、八坂は勢いよく部屋を飛び出した。
 再び母屋に戻ると、迷うことなく灯りをつけ、男にかぶせてあった布をめくり上げる。初めて光の下で目にした彼の姿に、八坂は息を呑んだ。
「……嘘……」
 八坂は当初、男の苦しげな様子は転落したことが原因だと思っていた。衣装がボロボロなのも、その際に木々によって傷つけられたせいだと。
 しかし、間近で確認した惨状は、明らかにそれが彼女の思い違いであったことを物語っている。
 鋭利な刃物で切り裂かれ、所々が黒ずみ、焦げている衣装。本来ならばそのうちに秘されているべき、剥き出しになった肉体。そこから流れ出たと思われるおびただしい鮮血。火傷の痕。そして、圧倒的な存在感をはなっている、背中に大きくまたがった太刀傷。
 この男は、激しい敵意を持った誰かに痛めつけられ、その結果として地上へと叩きつけられたのだ。
 

《次》

 

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