州羽社由緒記
 
 ふと気づくと、すっかり夜が明けきっていた。格子の隙間から薄明かりが射し込み、室内をぼんやりと浮かび上がらせている。
 いつの間にか眠りに落ちていたらしい。八坂は軽く目をこすり、部屋の隅に転がったままの男に視線を向けた。様子を窺うと、規則正しい寝息が聞こえてきた。とりあえず安堵する。
 そっと扉を開け、するりと簀子に抜け出す。だいぶ小降りになってはいたが、空模様は相変わらずだった。降り注ぐ雨のため、高欄はぐっしょりと濡れて変色している。
「……」
 曇天の中、切れ間から漏れる東からの僅かな光が、今が朝だということを教えてくれる。薄墨色の雲に遮られているだけで、天には太陽が確かにあるし、雨だって昨日に比べればかなり落ち着いている。なのに、不透明な日の光が、妙に冷たい水滴が、何故だか八坂の心をひどく不安へと駆り立てた。
 何となく気分が悪くなり、八坂はそれ以上外を眺めるのをやめた。気を取り直して朝餉の準備にかかる。
 盆を手にして母屋に戻ると、微かに衣擦れの音が耳に入った。続いて、苦しげなうめき声。
「……うー」
「あ……」
 起こしてしまったかと八坂は焦った。反射的に立ち止まり、様子を見る。ようやく目覚めた男はもぞもぞと身動きを繰り返し、おもむろに寝返りを打とうとし――途端に歯を食いしばった。
「っ、痛っ!」
 思わずのけ反るように跳ね起き、すぐにもとのように這いつくばる。うつ伏せの状態で恐る恐る背中に手を伸ばす男を、八坂は慌てて制止した。
「触ったら駄目です! 怪我をしているんですから、そっとしておかないと」
「え……?」
 男は、そこで初めて、傍らにいる八坂の存在に気づいたらしい。状況がよく分かっていないのか、しきりに左右を見渡して目を瞬かせる。
「覚えていませんか? どこか高いところから落ちてきて……森の中で気を失っていたこと」
「えっと……」
 頭を抱え、記憶を掘り起こすように考え込む。長いことそうしていたのち、男はばっと八坂を振り返った。
「ここはどこだ!?」
「え」
 ぐいぐい詰め寄ってくる男に怖気づく八坂。しかし、男は彼女の戸惑いを察する気配もなく、ただ必死だった。
「その、私の自宅ですけど……」
「いや、そういう意味じゃなくて!」
 おどおどと答える八坂に男はかぶりを振る。八坂は返事に窮したが、しばしの間を挟んでようやく男の言い分を理解した。
「科野の……州羽(すわ)です」
「州羽?」
 訊き返され、控えめに頷いてみせる。男はそこで、やっと張り詰めた表情を和らげた。大柄でたくましい体つきに似合わず、急に子供っぽい表情になる。
「そうか、ここは州羽か……高志(こし)の南だな」
 ゆっくりと身体を起こしながら、どこか懐かしそうに呟く。しばらくして、落ち着かない様子で彼を見つめている八坂に気づき、慌てて頭を下げた。
「ごめん、礼を言い忘れていた。俺のこと、助けてくれたんだよな?」
「いえ、そんな……」
 八坂はやんわりと首を横に振る。男はそれから、思い出したかのように言い添えた。
「そうだ、俺の名は建御名方(たけみなかた)。大国主命と、高志の沼河比売命(ぬなかわひめのみこと)の間の子だ」
「大国主様の!?」
 思わぬ名前が飛び出し、八坂は仰天する。大国主命といえば、建速須佐之男命の直系で、この葦原中津国を統べる神として名高い。
 しかし、恐縮してしまう八坂に対し、建御名方の態度はあっけらかんとしたものだった。むしろ困ったように苦笑している。
「そんな、畏まる必要ねえよ。俺、比売には本当に感謝してるんだから」
 あのままだったら今頃どうなっていたことか、と建御名方はぽりぽり頬を掻いた。その言葉に、八坂はずっと気になっていたことを思い出し、パッと顔を上げる。
「あの、建御名方様。一体何があったんですか? どうしてこんな酷いことに……!」
 昨夜目の当たりにした、あの生々しい傷痕が瞼裏に蘇り、八坂は息を詰まらせた。あの陰惨な有様は、よほどの殺意を含んだものに違いない。だが目の前にいる建御名方は、大国主の子息という立場の割に気取ったところがなく、とても他人の恨みを買うようには見えなかった。
 悲痛に表情を歪ませる八坂を見て、建御名方の顔から笑みが消えた。急速に冷やされたかのように、すっと硬い顔つきになる。
「……そっか、比売は知らないんだよな」
 少しだけ考え込むような素振りをして、建御名方は視線を落とした。布を幾重にも巻きつけられた己の腕を軽くなぞり、ゆっくりと口を開く。
「これをやったのは建御雷だ」
「たけ、みかづち……?」
 八坂は怪訝そうに訊き返した。聞き覚えのない名だが、建御名方と同じ出雲の神なのだろうか。
 そんな八坂の疑問に答えるかのように、建御名方は付け加えた。
「建御雷は高天原(たかまがはら)から降臨した天津神だ。剣の神であると同時に、いかずちをも司る軍神(いくさがみ)」
「天津神……!?」
 思わぬ事実に八坂は息を呑み、これ以上ないほど目を見開いた。
 察するに、ことはそう単純な話ではないようだ。天上界の軍神と、中津国の支配者の息子の間に、一体何があったのか。
 思わず居住まいを正した八坂に呼応するかのように、雨音にまじった雷鳴が遠く響いた。 ふと気づくと、すっかり夜が明けきっていた。格子の隙間から薄明かりが射し込み、室内をぼんやりと浮かび上がらせている。
 いつの間にか眠りに落ちていたらしい。八坂は軽く目をこすり、部屋の隅に転がったままの男に視線を向けた。様子を窺うと、規則正しい寝息が聞こえてきた。とりあえず安堵する。
 そっと扉を開け、するりと簀子に抜け出す。だいぶ小降りになってはいたが、空模様は相変わらずだった。降り注ぐ雨のため、高欄はぐっしょりと濡れて変色している。
「……」
 曇天の中、切れ間から漏れる東からの僅かな光が、今が朝だということを教えてくれる。薄墨色の雲に遮られているだけで、天には太陽が確かにあるし、雨だって昨日に比べればかなり落ち着いている。なのに、不透明な日の光が、妙に冷たい水滴が、何故だか八坂の心をひどく不安へと駆り立てた。
 何となく気分が悪くなり、八坂はそれ以上外を眺めるのをやめた。気を取り直して朝餉の準備にかかる。
 盆を手にして母屋に戻ると、微かに衣擦れの音が耳に入った。続いて、苦しげなうめき声。
「……うー」
「あ……」
 起こしてしまったかと八坂は焦った。反射的に立ち止まり、様子を見る。ようやく目覚めた男はもぞもぞと身動きを繰り返し、おもむろに寝返りを打とうとし――途端に歯を食いしばった。
「っ、痛っ!」
 思わずのけ反るように跳ね起き、すぐにもとのように這いつくばる。うつ伏せの状態で恐る恐る背中に手を伸ばす男を、八坂は慌てて制止した。
「触ったら駄目です! 怪我をしているんですから、そっとしておかないと」
「え……?」
 男は、そこで初めて、傍らにいる八坂の存在に気づいたらしい。状況がよく分かっていないのか、しきりに左右を見渡して目を瞬かせる。
「覚えていませんか? どこか高いところから落ちてきて……森の中で気を失っていたこと」
「えっと……」
 頭を抱え、記憶を掘り起こすように考え込む。長いことそうしていたのち、男はばっと八坂を振り返った。
「ここはどこだ!?」
「え」
 ぐいぐい詰め寄ってくる男に怖気づく八坂。しかし、男は彼女の戸惑いを察する気配もなく、ただ必死だった。
「その、私の自宅ですけど……」
「いや、そういう意味じゃなくて!」
 おどおどと答える八坂に男はかぶりを振る。八坂は返事に窮したが、しばしの間を挟んでようやく男の言い分を理解した。
「科野の……州羽(すわ)です」
「州羽?」
 訊き返され、控えめに頷いてみせる。男はそこで、やっと張り詰めた表情を和らげた。大柄でたくましい体つきに似合わず、急に子供っぽい表情になる。
「そうか、ここは州羽か……高志(こし)の南だな」
 ゆっくりと身体を起こしながら、どこか懐かしそうに呟く。しばらくして、落ち着かない様子で彼を見つめている八坂に気づき、慌てて頭を下げた。
「ごめん、礼を言い忘れていた。俺のこと、助けてくれたんだよな?」
「いえ、そんな……」
 八坂はやんわりと首を横に振る。男はそれから、思い出したかのように言い添えた。
「そうだ、俺の名は建御名方(たけみなかた)。大国主命と、高志の沼河比売命(ぬなかわひめのみこと)の間の子だ」
「大国主様の!?」
 思わぬ名前が飛び出し、八坂は仰天する。大国主命といえば、建速須佐之男命の直系で、この葦原中津国を統べる神として名高い。
 しかし、恐縮してしまう八坂に対し、建御名方の態度はあっけらかんとしたものだった。むしろ困ったように苦笑している。
「そんな、畏まる必要ねえよ。俺、比売には本当に感謝してるんだから」
 あのままだったら今頃どうなっていたことか、と建御名方はぽりぽり頬を掻いた。その言葉に、八坂はずっと気になっていたことを思い出し、パッと顔を上げる。
「あの、建御名方様。一体何があったんですか? どうしてこんな酷いことに……!」
 昨夜目の当たりにした、あの生々しい傷痕が瞼裏に蘇り、八坂は息を詰まらせた。あの陰惨な有様は、よほどの殺意を含んだものに違いない。だが目の前にいる建御名方は、大国主の子息という立場の割に気取ったところがなく、とても他人の恨みを買うようには見えなかった。
 悲痛に表情を歪ませる八坂を見て、建御名方の顔から笑みが消えた。急速に冷やされたかのように、すっと硬い顔つきになる。
「……そっか、比売は知らないんだよな」
 少しだけ考え込むような素振りをして、建御名方は視線を落とした。布を幾重にも巻きつけられた己の腕を軽くなぞり、ゆっくりと口を開く。
「これをやったのは建御雷だ」
「たけ、みかづち……?」
 八坂は怪訝そうに訊き返した。聞き覚えのない名だが、建御名方と同じ出雲の神なのだろうか。
 そんな八坂の疑問に答えるかのように、建御名方は付け加えた。
「建御雷は高天原(たかまがはら)から降臨した天津神だ。剣の神であると同時に、いかずちをも司る軍神(いくさがみ)」
「天津神……!?」
 思わぬ事実に八坂は息を呑み、これ以上ないほど目を見開いた。
 察するに、ことはそう単純な話ではないようだ。天上界の軍神と、中津国の支配者の息子の間に、一体何があったのか。
 思わず居住まいを正した八坂に呼応するかのように、雨音にまじった雷鳴が遠く響いた。 ふと気づくと、すっかり夜が明けきっていた。格子の隙間から薄明かりが射し込み、室内をぼんやりと浮かび上がらせている。
 いつの間にか眠りに落ちていたらしい。八坂は軽く目をこすり、部屋の隅に転がったままの男に視線を向けた。様子を窺うと、規則正しい寝息が聞こえてきた。とりあえず安堵する。
 そっと扉を開け、するりと簀子に抜け出す。だいぶ小降りになってはいたが、空模様は相変わらずだった。降り注ぐ雨のため、高欄はぐっしょりと濡れて変色している。
「……」
 曇天の中、切れ間から漏れる東からの僅かな光が、今が朝だということを教えてくれる。薄墨色の雲に遮られているだけで、天には太陽が確かにあるし、雨だって昨日に比べればかなり落ち着いている。なのに、不透明な日の光が、妙に冷たい水滴が、何故だか八坂の心をひどく不安へと駆り立てた。
 何となく気分が悪くなり、八坂はそれ以上外を眺めるのをやめた。気を取り直して朝餉の準備にかかる。
 盆を手にして母屋に戻ると、微かに衣擦れの音が耳に入った。続いて、苦しげなうめき声。
「……うー」
「あ……」
 起こしてしまったかと八坂は焦った。反射的に立ち止まり、様子を見る。ようやく目覚めた男はもぞもぞと身動きを繰り返し、おもむろに寝返りを打とうとし――途端に歯を食いしばった。
「っ、痛っ!」
 思わずのけ反るように跳ね起き、すぐにもとのように這いつくばる。うつ伏せの状態で恐る恐る背中に手を伸ばす男を、八坂は慌てて制止した。
「触ったら駄目です! 怪我をしているんですから、そっとしておかないと」
「え……?」
 男は、そこで初めて、傍らにいる八坂の存在に気づいたらしい。状況がよく分かっていないのか、しきりに左右を見渡して目を瞬かせる。
「覚えていませんか? どこか高いところから落ちてきて……森の中で気を失っていたこと」
「えっと……」
 頭を抱え、記憶を掘り起こすように考え込む。長いことそうしていたのち、男はばっと八坂を振り返った。
「ここはどこだ!?」
「え」
 ぐいぐい詰め寄ってくる男に怖気づく八坂。しかし、男は彼女の戸惑いを察する気配もなく、ただ必死だった。
「その、私の自宅ですけど……」
「いや、そういう意味じゃなくて!」
 おどおどと答える八坂に男はかぶりを振る。八坂は返事に窮したが、しばしの間を挟んでようやく男の言い分を理解した。
「科野の……州羽(すわ)です」
「州羽?」
 訊き返され、控えめに頷いてみせる。男はそこで、やっと張り詰めた表情を和らげた。大柄でたくましい体つきに似合わず、急に子供っぽい表情になる。
「そうか、ここは州羽か……高志(こし)の南だな」
 ゆっくりと身体を起こしながら、どこか懐かしそうに呟く。しばらくして、落ち着かない様子で彼を見つめている八坂に気づき、慌てて頭を下げた。
「ごめん、礼を言い忘れていた。俺のこと、助けてくれたんだよな?」
「いえ、そんな……」
 八坂はやんわりと首を横に振る。男はそれから、思い出したかのように言い添えた。
「そうだ、俺の名は建御名方(たけみなかた)。大国主命と、高志の沼河比売命(ぬなかわひめのみこと)の間の子だ」
「大国主様の!?」
 思わぬ名前が飛び出し、八坂は仰天する。大国主命といえば、建速須佐之男命の直系で、この葦原中津国を統べる神として名高い。
 しかし、恐縮してしまう八坂に対し、建御名方の態度はあっけらかんとしたものだった。むしろ困ったように苦笑している。
「そんな、畏まる必要ねえよ。俺、比売には本当に感謝してるんだから」
 あのままだったら今頃どうなっていたことか、と建御名方はぽりぽり頬を掻いた。その言葉に、八坂はずっと気になっていたことを思い出し、パッと顔を上げる。
「あの、建御名方様。一体何があったんですか? どうしてこんな酷いことに……!」
 昨夜目の当たりにした、あの生々しい傷痕が瞼裏に蘇り、八坂は息を詰まらせた。あの陰惨な有様は、よほどの殺意を含んだものに違いない。だが目の前にいる建御名方は、大国主の子息という立場の割に気取ったところがなく、とても他人の恨みを買うようには見えなかった。
 悲痛に表情を歪ませる八坂を見て、建御名方の顔から笑みが消えた。急速に冷やされたかのように、すっと硬い顔つきになる。
「……そっか、比売は知らないんだよな」
 少しだけ考え込むような素振りをして、建御名方は視線を落とした。布を幾重にも巻きつけられた己の腕を軽くなぞり、ゆっくりと口を開く。
「これをやったのは建御雷だ」
「たけ、みかづち……?」
 八坂は怪訝そうに訊き返した。聞き覚えのない名だが、建御名方と同じ出雲の神なのだろうか。
 そんな八坂の疑問に答えるかのように、建御名方は付け加えた。
「建御雷は高天原(たかまがはら)から降臨した天津神だ。剣の神であると同時に、いかずちをも司る軍神(いくさがみ)」
「天津神……!?」
 思わぬ事実に八坂は息を呑み、これ以上ないほど目を見開いた。
 察するに、ことはそう単純な話ではないようだ。天上界の軍神と、中津国の支配者の息子の間に、一体何があったのか。
 思わず居住まいを正した八坂に呼応するかのように、雨音にまじった雷鳴が遠く響いた。 ふと気づくと、すっかり夜が明けきっていた。格子の隙間から薄明かりが射し込み、室内をぼんやりと浮かび上がらせている。
 いつの間にか眠りに落ちていたらしい。八坂は軽く目をこすり、部屋の隅に転がったままの男に視線を向けた。様子を窺うと、規則正しい寝息が聞こえてきた。とりあえず安堵する。
 そっと扉を開け、するりと簀子に抜け出す。だいぶ小降りになってはいたが、空模様は相変わらずだった。降り注ぐ雨のため、高欄はぐっしょりと濡れて変色している。
「……」
 曇天の中、切れ間から漏れる東からの僅かな光が、今が朝だということを教えてくれる。薄墨色の雲に遮られているだけで、天には太陽が確かにあるし、雨だって昨日に比べればかなり落ち着いている。なのに、不透明な日の光が、妙に冷たい水滴が、何故だか八坂の心をひどく不安へと駆り立てた。
 何となく気分が悪くなり、八坂はそれ以上外を眺めるのをやめた。気を取り直して朝餉の準備にかかる。
 盆を手にして母屋に戻ると、微かに衣擦れの音が耳に入った。続いて、苦しげなうめき声。
「……うー」
「あ……」
 起こしてしまったかと八坂は焦った。反射的に立ち止まり、様子を見る。ようやく目覚めた男はもぞもぞと身動きを繰り返し、おもむろに寝返りを打とうとし――途端に歯を食いしばった。
「っ、痛っ!」
 思わずのけ反るように跳ね起き、すぐにもとのように這いつくばる。うつ伏せの状態で恐る恐る背中に手を伸ばす男を、八坂は慌てて制止した。
「触ったら駄目です! 怪我をしているんですから、そっとしておかないと」
「え……?」
 男は、そこで初めて、傍らにいる八坂の存在に気づいたらしい。状況がよく分かっていないのか、しきりに左右を見渡して目を瞬かせる。
「覚えていませんか? どこか高いところから落ちてきて……森の中で気を失っていたこと」
「えっと……」
 頭を抱え、記憶を掘り起こすように考え込む。長いことそうしていたのち、男はばっと八坂を振り返った。
「ここはどこだ!?」
「え」
 ぐいぐい詰め寄ってくる男に怖気づく八坂。しかし、男は彼女の戸惑いを察する気配もなく、ただ必死だった。
「その、私の自宅ですけど……」
「いや、そういう意味じゃなくて!」
 おどおどと答える八坂に男はかぶりを振る。八坂は返事に窮したが、しばしの間を挟んでようやく男の言い分を理解した。
「科野の……州羽(すわ)です」
「州羽?」
 訊き返され、控えめに頷いてみせる。男はそこで、やっと張り詰めた表情を和らげた。大柄でたくましい体つきに似合わず、急に子供っぽい表情になる。
「そうか、ここは州羽か……高志(こし)の南だな」
 ゆっくりと身体を起こしながら、どこか懐かしそうに呟く。しばらくして、落ち着かない様子で彼を見つめている八坂に気づき、慌てて頭を下げた。
「ごめん、礼を言い忘れていた。俺のこと、助けてくれたんだよな?」
「いえ、そんな……」
 八坂はやんわりと首を横に振る。男はそれから、思い出したかのように言い添えた。
「そうだ、俺の名は建御名方(たけみなかた)。大国主命と、高志の沼河比売命(ぬなかわひめのみこと)の間の子だ」
「大国主様の!?」
 思わぬ名前が飛び出し、八坂は仰天する。大国主命といえば、建速須佐之男命の直系で、この葦原中津国を統べる神として名高い。
 しかし、恐縮してしまう八坂に対し、建御名方の態度はあっけらかんとしたものだった。むしろ困ったように苦笑している。
「そんな、畏まる必要ねえよ。俺、比売には本当に感謝してるんだから」
 あのままだったら今頃どうなっていたことか、と建御名方はぽりぽり頬を掻いた。その言葉に、八坂はずっと気になっていたことを思い出し、パッと顔を上げる。
「あの、建御名方様。一体何があったんですか? どうしてこんな酷いことに……!」
 昨夜目の当たりにした、あの生々しい傷痕が瞼裏に蘇り、八坂は息を詰まらせた。あの陰惨な有様は、よほどの殺意を含んだものに違いない。だが目の前にいる建御名方は、大国主の子息という立場の割に気取ったところがなく、とても他人の恨みを買うようには見えなかった。
 悲痛に表情を歪ませる八坂を見て、建御名方の顔から笑みが消えた。急速に冷やされたかのように、すっと硬い顔つきになる。
「……そっか、比売は知らないんだよな」
 少しだけ考え込むような素振りをして、建御名方は視線を落とした。布を幾重にも巻きつけられた己の腕を軽くなぞり、ゆっくりと口を開く。
「これをやったのは建御雷だ」
「たけ、みかづち……?」
 八坂は怪訝そうに訊き返した。聞き覚えのない名だが、建御名方と同じ出雲の神なのだろうか。
 そんな八坂の疑問に答えるかのように、建御名方は付け加えた。
「建御雷は高天原(たかまがはら)から降臨した天津神だ。剣の神であると同時に、いかずちをも司る軍神(いくさがみ)」
「天津神……!?」
 思わぬ事実に八坂は息を呑み、これ以上ないほど目を見開いた。
 察するに、ことはそう単純な話ではないようだ。天上界の軍神と、中津国の支配者の息子の間に、一体何があったのか。
 思わず居住まいを正した八坂に呼応するかのように、雨音にまじった雷鳴が遠く響いた。
 

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