州羽社由緒記
 
 そもそも、建御名方の父・大国主は須佐之男から数えて六代の血筋ではあるが、数多くの兄弟神に囲まれた一柱に過ぎず、決して目を惹く存在ではなかった。
 それが、兄弟神を平らげ、出雲の覇者となり、やがて葦原中津国を統べるまでにのし上がった。そんなときに出雲に現れたのが建御雷――天照大御神の放った使者である。
 彼は大国主に対し、天照大御神とその子孫への中津国の献上を要求した。大国主はその是非を己が息子たちに委ね、長男である事代主(ことしろぬし)はそれを了承したが――。
「俺は、断固として戦うことを決めた。父上が血を吐くような思いで築いてきたこの国を、どうしてみすみす譲り渡すことができる?」
 建御名方は悔しさを滲ませながら、拳を固く握り締めた。
「……こっちに来たのは、高志に援軍を求めるためなんだ。出雲の方は、父上や事代主が戦線を離脱した以上、戦力は見込めない。あ、高志は俺の母上の実家なんだけど。ただ、あいつの攻撃から逃げ回っているうちに――」
 州羽の上空まで追い詰められ、とどめの一撃を受けたというわけだった。
「……本当に助かった。礼を言う。比売の助けと手当てがなかったら、今頃どうなっていたか」
「い、いえ! そんな、私なんかに畏まらないで下さい!」
 深々と頭を下げる建御名方に、八坂は恐縮してしまう。乞われて顔を上げた建御名方は、ふっと怪訝な表情になった。
「……比売? どうした?」
 建御名方の態度に対する狼狽とは違う、複雑な顔。何かをためらっているような、言いよどんでいるような。
「……あの、一つだけお伺いしても宜しいでしょうか?」
「ああ、何でも訊いてくれ」
 軽快に返す建御名方とは対照的に、八坂の顔つきは重かった。
 
「……何故、大御神様の仰せに従わないのですか?」
 
「…………え?」
 建御名方の戸惑いは大きかった。まるで異国の言葉で話しかけられたかのように、引きつった笑みを口の端に上らせる。
「いや、だって」
「お父君の、大国主様の作られた国を渡したくないという、そのお気持ちは分かります。でも……大御神様の命ならば、お断りするすべはないのでは」
 視線を下方に泳がせながら、八坂はだんだん後悔し始めた。
「……そりゃあ、天照大御神がこの世界で最上位の神だってことは分かっている。でも、それとこれとは話が別だ。高天原の神が、今さら中津国の支配者面するのはおかしいだろう?」
「そうではなくて――天津神の仰せは絶対ではないのですが? 高天原だろうと中津国だろうと、大御神様がお望みなら差し出すしか……」
 不毛なやりとりに八坂は泣きそうになる。まるで噛み合っていないのだ。彼女にはそもそも、天津神に逆らうという発想がない。理屈の上で支配の正当性を主張する建御名方が理解できないのだ。
 同じ国津神とはいえ、須佐之男の直系である建御名方と一地方神の娘でしかない八坂では感覚が異なるのだろうか。いや、あの須佐之男だって天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を天照大御神に献上したではないか。
「……俺は、そうは思えない。父上だって、むざむざこの国を譲り渡すのは不本意なはずだ」
「でも、事代主様は了承されたのでしょう? 大国主様だってご意見を表明されたわけではないと……」
 建御名方は瞼を閉じ、首を振った。確かに、彼と一緒に戦ってくれる者は出雲にいなかった。……懸命に抗戦を主張する建御名方に、冷ややかな視線を向ける者も少なからずいたかも知れない。でもそれは、まとまりかけた話に水を差したことに対する非難こそあれ、天照大御神に逆らうという行為そのものに向けられたものではなかった。
 場が気まずい沈黙に包まれる。黙ってしまった建御名方に、八坂はどうすればいいのか分からなくなる。彼女の表情の変化に気づいた建御名方が口を開いた。
「あのさ」
「は、い……」
「ごめん、この話はもうやめよう」
 差し出口を利いて申し訳ございませんでした、という言葉を無理やり呑み込む。震える声につられて泣いてしまうかも知れなかった。
 

《次》

 

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